ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

伊居太神社

2016年03月11日 20時11分00秒 | 社寺まいり

池田市綾羽 伊居太(いけだまたは、いこた)神社

以前に紹介したような気がしたのですが・・・見直してもないですね?

HPにも画像ないし・・

何度も参拝しているのに新発見・本殿側面の彫刻 なんと獅子噛みが2頭並んでるではないですか!

しかも足腕まで彫ってます。

案内板より

正式名称は穴織(あやはとり)宮居伊太神社。歴代天皇・皇族の勅願所として天皇が勅使をたてて祭事の行われる。神社としての起源は非常に古く西暦460(?)年頃にまで遡るよう。中国の霊帝4代目である阿知使主とその子、都加使主が日本に帰化し様々な文化的貢献をする。両人は天皇に願い出て、織物・衣服の技術向上のため呉の国に渡り、ついに裁縫と機織の師を得て帰国する。その功績により阿知使主と都加使主は、猪名の津(川辺郡から池田・豊中にかけて)を領地として与えられて、同地で技術教育にあたったとのこと。
 これら関係者の存命中、多くの技術者を育成し日本の技術発展に貢献したとして天皇は、勅願により神社を建立。正式名称(後世に命名)の「穴織宮居伊太神社」の「穴織」とは、その時に来日し機織の指導に当たった「穴織・呉織の師」に由来。
 その後、860年(貞観2)清和天皇勅定をもって社殿の修復、源満仲公造営再興して1325年(正中2)、後醍醐天皇によって「穴織宮居伊太神社」の宸筆を受け命名される。1339年(暦応2)足利尊氏により更に拡張は続き、社殿の改築と寺領の寄付あり。
その後の天正年間(1573~1592)、荒木摂津守村重の謀反により、池田のめぼしい社寺はことごとく戦火に遭い、伊居太神社も難を逃れる事はできず全焼。1604年(慶長9)内大臣豊臣秀頼公は、片桐且元を普請奉行に命じて社殿を再建、造営。現在に至る。

悲しいかなかなりの傷み具合、改修に様々な問題あるのか?

本殿・築造1604年とありますが・・・彫刻の感じからすると100年あたり後年のような気がしますがいかに。

本殿 彫刻推定服部一門


























瑞垣からなる楼門?(拝殿)

彫刻 これは、服部清七満朝と思われる彫 時代的にはさらに後年文化・文政頃か?












参集殿? 彫刻

これも服部清七満朝か?この参集殿の築造が解ればはっきりしますが。















元治元年創業 麺類処 吾妻  池田市西本町




酒造 呉春 本社



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