<2月27日付 編集手帳>
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/column1/news/20090226-OYT1T01217.htm
〈汽車の窓から手をにぎり/送ってくれた人よりも/ホームの陰で泣いていた/可愛いあの娘が忘られぬ…〉と昔の流行歌「ズンドコ節」にある。列車の窓が開かない今、こういう別れの光景も目にしなくなった◆窓のせいではない、携帯電話のせいだと、ジャーナリストの徳岡孝夫さんが月刊「文芸春秋」に「別れが消えた」と題する随筆を寄せたのは2年半ほど前である◆親指ひとつで、さっき別れた人にメールが送れる。すぐに返信が来る。駅に出向いて泣いたり、手を握ったりするまでもない。「ケータイは人から別離を奪った。別離の後に必ず来る孤独をも奪った」と◆別離のいとまがない“つながりっぱなし”の文化はさらに底辺を広げたようで、文部科学省の調査によれば中学2年生の約2割が日に50通以上のメールを送受信し、入浴中も携帯電話を手放せない子供がいるという◆いつか散るから花がいとおしいように、別離と孤独があるから人もいとおしい。ホームの陰で泣いてくれる「可愛いあの娘」がいたわけではないが、携帯電話のない時代に青春期を過ごせたことを幸せに思うときがある。
(2009年2月27日02時00分 読売新聞)
たまたま運転中に放映されたテレビ番組で「あなたはどんな時に孤独を感じますか?」と街頭インタビューを行っていた。
ある女性(37歳、見た目、くっそおばん)が「仕事が終わって携帯見ても、一通も着信やメールが来てないとき、孤独を感じるみたいなぁ~」とニタニタしながら答えていました。
仏の哲学者アラン(本名:エミール:オーギュスト・シャルティエ)は、「生き物は全て孤独である。そして人間は自らが孤独であることを最も良く知る者である」と言っています。
孤独を感じるのが当たり前で、孤独を感じないのであれば、それはもはや人間以下、ということになるのでしょう。
だから、「孤独だ!孤独だ!」と積極的にマイナスの感情を抱く必要はなく、ましてや孤独感に苛まれて悩む必要などさらさらない。孤独で“悩む”のは辛いだろうが、孤独で寂しくて辛いというのは気持ちの問題であり、純然たる状況依存的な感覚。つまり、孤独感は外的要因が主たる原因で起因する感情であり、人間は生きている限りイライラしたり、ほほ笑んだり、欲求が増大したりするのだから、感情起因の要因が消滅した後は、落着きを取り戻すのが通常であろう。
また、受験生は孤独に感じることも多いだろう。「落ちたらどうしよ・・・」などと考えると孤独の無限連鎖に陥り(かく言うわたくしも、大学に入学したのが21歳。そら、生きた心地がしませんでしたよ)、自己の奥底から湧出する抑えきれない危機意識、焦燥感にいてもたってもいられなくなるだろう(今から考えると、当時のわたくしは軽いノイローゼだったでしょうね。えって?今でもノイローゼってか?うひゃひゃ)。
しかし、言いたい。
それでいいのだ(バカボンのパパ)、と。それが正常である証しなのだ。異常な精神状態こそが正常←明言。逆深層心理。逆人類の英知。逆矛盾。逆撫順戦犯管理所wwwwwwwwwwww
モンテーニュは「 孤独の生活の目的とは、もっとゆうゆうと、もっと気ままに暮らすというただ一つであると私は信ずる」と孤独を肯定的に解釈している。
孤独は、静かな状態でもあり、静寂感が思考を活性化することもあるだろう。わび・さびの境地は、まさにコレ。孤独な感情は崇高なる文化的精神状態にも繋がるのだ。
よく「何でも話せる他人がいることが大事」だと、友人を作ることを勧める心理学者や教師がいるが、これほどナンセンスで、人間に対する無理解な言説はない。肝胆相照らす仲の友など滅多なことでは存在しない。それが普通であり、当たり前だ。むしろ、何でも話さずに自分だけの秘事、恥じらいがあることの方が人間としては立派だし、秘め事を持つから恥じらいという感覚ができ、それが究極的には慎み(謹み)につながるのではないかと思う。ライブドアの堀江某は、恥らいも何もなく、何でも仲間に話し、そして金銭獲得を目指したドブ人間にしか見えないのは、わたしだけでしょうか。
何も無理して「孤独な自分」を創造する必要はない。ましてや、「孤独だ」と思い込む必要はない。日本には至る所に神様が存在する。八百万の神々が孤独な人間を包み込んで下さっている。
また、日本には天皇陛下がいらっしゃる。天皇陛下は毎朝欠かさず国民、国家の安寧秩序、平穏をお祈りすることから始められる。
一国の国王がその日の朝一番にすることが国民の平穏をお祈りすることであり、しかもこの行為が2600年以上も続けられている国が日本以外のどこにある?
日本だけだぞ!
3月2日から(3月1日は結団式。ちなみに2月28日から上京します)皇居勤労奉仕に参加して参ります。昭和20年、空襲でボロボロになった皇居の清掃がしたいと、宮城県の有志約60名が申し出たのが始まりの皇居勤労奉仕。毎日毎日噂が噂を呼び、全国各地から毎日清掃奉仕に参加された。敗戦直後、おそらく自分や家族の食料もままならぬ中、また国内のインフラも整備されない中、日本国民が皇居に集まり清掃に励んだ理由はどこにあるのか。
戦前の日本は今の北朝鮮と同じで、金正日を天皇陛下と同列に扱う愚か者がいるが、はたして金王朝が瓦解した後、北朝鮮の人民は金王朝のために毎日清掃奉仕に出かけるのか。この一事だけでも日本に君臨される天皇陛下の存在に畏敬を感じるではないか。われわれは「天皇陛下万歳」の意味を、もっと真剣に考えるべきだ。
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これは、「皇居勤労奉仕発端の物語(抜粋)」という木下元侍従次長が書かれた文章です。ちょっと、ホロっときます。時間のある方はお読みください。
何はともあれ、皇居清掃奉仕団の一員として恥じないよう誠心誠意いお勤めさせていただきます。
今日この日、この時に生を受けている奇跡に感謝し、身近な友や仲間、親、兄弟、そして妻に感謝の誠を捧げたいと思います。
ありがとう