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野球を愛するがゆえに、野球を捨てる今年の夏。

2008-03-22 17:55:34 | Weblog

わしは、野球が大好きだ。

 

生まれる前からの阪神タイガースファン。阪神タイガースをこよなく愛している。弱く、情けなく、人気に胡坐をかき続けるおバカ阪神を愛し続けてはや幾年。物心付いた頃から自然と言葉を覚えるように阪神ファンになっていた(んなあほな)。

 

幼い頃の記憶で、手元に手繰り寄せることのできる最古の記憶は、吉田義雄監督(第一次)の時代に阪神は4位(昭和52年、わしは小学校1年生か?)に終わり、「吉田やめろ」とデイリーやニッカンで非難の矢面に立たされていた頃のことか。

 

背番号22の田淵は、阪神の正捕手として世界のホームランキング王貞治を破り、ホームラン王を獲得した(昭和47年、43本)。田淵が去った後は掛布雅之がミスタータイガースとなり、弱かった投手陣の中で山本和行のフォークボールが冴え渡り常に二桁勝利を獲得し、爪楊枝外人カークランドがいたり(掛布の前に背番号31をつけていた)、メジャーリーガーであったブリーデン、ファンからこよなく愛されたラインバック、独特の打法の竹之内雅史、背番号1番植松精一、元祖セットアッパーサブマリン背番号18大町定夫、中継ぎエース池内豊などがいた。昭和60年に阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝、そして日本史シリーズで当時常勝(創価学会ではありませんよ)軍団であった西武ライオンズを破り日本一になるまでの名選手、名シーンなど、いまだに記憶に残っている。掛布選手が広島市民球場でセンターバックスクリーンへ弾丸ライナーでホームランを打ったシーン。今は亡き島野育夫コーチ、柴田猛コーチの横浜球場での審判暴行事件。夏の頃かならずスランプになる掛布選手であったが、スランプを脱出する際必ず大きなホームランを打つ。特に1イニング2打席連続ホームランなどが記憶に鮮明によみがえる。佐野仙好、長尾康、弘田澄男のさよならヒットなど鮮明に覚えている。

 

小学校4年生のとき、スポーツ少年団に入った。いわゆるリトルリーグである。主に日曜日、早朝から野球の練習をする。土曜日の午後(当時は週休2日ではなかった)や日曜日には試合もあった(未来部で座談会もあったけど)。小学生の未熟な体でランニングをするのはとても辛かったが、子供ながらこのランニングが全ての基礎基本であると、漠然とではあるが理解しており、いやいやながらも懸命に努力した。

 

しかし、小学校6年生のとき、心臓に疾患があることが判明。激しい運動はできない可能性を指摘された。大きな病院で精密検査をすることになった。毎日野球をしていると時には、練習がしんどく嫌になることもあった。しかし、いざ野球ができなくなるかもしれないとなると、とても悲しくなり、悲嘆な思いで検査に望んだことを覚えている。不安な思いで検査結果を待った。

 

検査結果。

 

大きな異常なし。

 

野球。

 

問題なくできる。

 

当時の細かな機微は当然覚えてはいないが、わしのことやから、相当喜んだのでしょうね(*^_^*)

 

さまざまなことに感謝し、初心に戻り野球をすることができる嬉しさを噛み締めながらランニングに励んだことと思う。

 

本年、支那でオリンピックが開催される。今大会で野球はオリンピック正式種目から外される(←間違ってました。2012年のロンドンで最後でした。ごめりんこ)。今年のオリンピックは選手のみならず、ファンにとっても実に実に大きな意味を持つ大会になる。

 

しかし、ある意味自分の人生の一部分、生活の一部分でもある野球であるが、今大会北京で行われる予定のオリンピックは一切見ないことにする。

 

当然、野球も見ない。応援もしない。

 

あれだけ大好きな野球だが、決心した。

 

 

支那にはオリンピックを開催する権利も資格もない!

 

 

ご存知のように、チベット自治区による「暴動」で大量のチベット族が虐殺され、現在も進行中である。

 

3月10日から生じていた「暴動」であるが、3月14日に大きく報道される前段階で、「死体を積んだドラック」を目撃した観光客がいたとか。そういえば、天安門事件の際も同様に人民の死体を隠し、「虐殺はなかった」と法螺を吹いていましたね。

 

冷静に考えよう。これは「暴動」なのか。新聞を初めとするすべてのメディアが「暴動」と報じている(最近は「騒乱」と言っている新聞が出てきたが)が、これは「暴動」ではなく、「不当な支配」からの自由を求める「蜂起」ではないのか。

 

チベットは昭和26年(1951年)に「十七条平和開放協定」を中共との間に結ぶ。これをもって「チベットは支那の領土」という言い分が支那内部にのみまかり通っているのであるが、以下の引用をご覧いただきたい。

 

<パンチェン・ラマ6世の歿後、タシルンポの官吏たちは、チベット政府と西寧に赴いていたパンチェン・ラマの侍従たちの助けをかりて、パンチェン・ラマの転生者を捜し始めた>

<政府はタシルンポに3人の候補者全員を連れてきた上で、伝統的な宗教テストを行い、真の転生者を選出するように指示した>

<その間に西寧の候補者はクンブム僧院で得度を受けた。チベット政府もまたカムからの2人の候補者に、1人はデープン僧院で、もう1人はタシルンポ僧院で得度を受けさせた>

<この問題に決着のつかぬまま数年が過ぎた。中国国民党政府は、西寧の候補者に対しいかなる言質も与えぬまま財政的援助のみを与えていた。しかし、チベット政府がラサの中国国民辧事処(代表部)に退去命令を出した時、国民党政府はクンブム僧院に代表を送り、1949年8月10日、通常のテストぬきで西寧の候補者をパンチェン・ラマ6世の転生者と認定した。数週間後、青海省の省都西寧は共産党軍に占領された。同時にパンチェン・ラマもまた彼らの手におちた。国民党政府は台湾に移動し、青海省政府主席の馬歩芳はその地方を放棄した>

中国共産党の手中におちたパンチェン・ラマは、いわゆるチベット解放において毛沢東と朱徳を支持することを余儀なくされ、逆に1951年の17条協約調印中に、チベット代表団は西寧の候補者をパンチェン・ラマ7世として認定するよう強要された

<1950年10月26日、インド政府は中華人民共和国がチベットにおいて軍事力を行使したことに抗議し、この侵略は中国の益にならず、平和にも貢献しないと述べた>

<11月7日、庚寅年のチベット暦9月27日付でチベット内閣及び国民議会は、彼らの言うところの極悪なる侵略的行為に抗議を行い、通商代表団団長W・D・シャカッパはそれを1950年11月11日、カリンポンから国連へ打電した。国連への打電の1部をここにあげる。

「 チベットを共産中国に編入するために、強大な武力を用いてチベットに軍事侵攻したことは、明らかな侵略事件である。チベット人民が自らの意志と希望に反し、無理矢理中国の1部に組みこまれるというこの事態がこのまま進行するならば、この侵略行為は強者による弱者征服の最悪の実例となるであろう。それゆえ、我々はチベットのために介入し、中国の武力侵略を阻止するよう、国連を通して世界各国に訴えるものである 。」>

 以上、『チベット政治史』から抜粋引用(太字、下線:わし)

 

卑近な例にたとえて恐縮だが、自宅に侵入してきたゴロツキが、「ここは、わしの自由に使える家にする。その同意書に署名せんかい!」と暴力で強要した。その後、強制的に調印させられた人が、ゴロツキに噛み付いた。これは、「暴動」ではなく、正当「防衛」ではないのか。チベットの人民は「立ち上がった」のである。つまり、「蜂起」と呼ぶべきだ。

 

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾(=有条件降伏)したが、その数日後、ソ連軍は北海道を奪うことを目的に占守島を始めとする千島列島、および北方四島に攻め込んできた。その後、ソ連の支配は続き、現地住民による独自の宗教は認めず、海底鉄道を敷き、ソ連で仕事にあぶれた者たちが北方四島にやってきては住民をこき使い不当な賃金で搾取し、男どもは現地の女性と結婚してソ連の文化で北方四島の文化や伝統を破壊し続ける。そして、日本本土の首相は「ソ連にはオリンピックをする資格がある。われわれは北方四島の独立を望んでいるのではない」と言ったと仮定すれば(すまん、仮定の話をしてました)、燻っていた火種が轟々と燃え盛るもの当然であると言わねばならない。これは、「蜂起」以外の何ものでもない。

 

チベット自治区(だから、この「自治区」という言い方も大問題。支那の言い分を許容しているかのようだから)の住民は、支那の戦略に敗退し、チベットの文化や文明、伝統が破壊されつつある。その状況に抗うべく、住民は立ち上がった。しかもチベット族はおだやかな仏教徒である。テレビ等の映像でご存知だろうが、彼らは火器で抵抗しているのではない。武器、弾薬を持たないのである。しかし、3月10日当初から支那からは人民解放軍が出動し、25mm機関砲(飛行機なんかをやっつけるときに使用するようなデカイ砲)を搭載した戦車が鎮圧にあたっているのである。一方チベット族は棒切れや石ころを手にしているだけである。国境を侵されるということは、このようなことを意味する。だから、国を守るために命を捧げし御霊の顕彰、慰霊は大切なのだ(だから靖國神社は・・・・という話は散々してきたので、今回はやめときます)。

 

いやいや、政治とスポーツは別ですよ、との意見もある。しかし「平和の祭典」であるオリンピックを、平和を乱す国が行う資格が果たしてあるのか、甚だ疑問である。昭和15年(1940年)、日本は決定していた東京オリンピックを開催できなかった。支那事変の影響で開催権を返上したのである。

 

このままでは、選手のみならず、観光客まで危険な目に合わされる可能性がある。このような危険な目に合う可能性があるのに、それでもオリンピックを行うのは、面子や利権のためだと思われても仕方がない。

 

薮中という外務省のボンクラは、胡錦濤来日について「基本的に関係ない。影響を及ぼさない」と答えている。

 

福田首相は「憂慮している。(中国当局とデモ参加者の)双方が冷静に適切な対応を取ってほしい」と答えている。

 

外国の偉いさんを呼ぶとき、「説教するため」に呼ぶことがあり得るだろうか。答えは、否である(中共が日本人を呼ぶときは唯一例外ですが)。だから、胡錦濤が来日するということは、即「“歓迎”する」ことを意味するのだ。このような事態が生じているときに、日本は支那を歓迎し、チベットを足蹴にするという選択を果たしてするのであろうか。これは政治家が勝手に行ったこと、では済まない。「日本の行動、姿勢」として世界に受け取られるのだ。たとえば、ポーランド人は日本人が大好きである。なぜかといえば、東郷元帥が日露戦争で当時世界最強海軍だったバルチック艦隊をやっつけたからだ。かように、1人の象徴的行動が、一国の良し悪しを規定するのである。

 

だからもう一度言う。野球を初めとする愛してやまないスポーツを、今回は見るわけにはいかないのだ。

 

 

チベット騒乱の責任をとり、支那はオリンピック開催権を返上せよ!! 

 

チベットはチベット人のものであり、支那のものではない!!

 

支那には、オリンピックをする資格も権利もない!!

 

心あるアスリート諸君は、支那オリンピックをボイコットせよ!!

 

オリンピック以外の世界的選手権に目標をシフトせよ!!

 

そのようなアスリートをわれわれは全面的に応援し、協力する!!

 

公明党・創価学会のボンクラどもよ!!おまえらは、支那を支持するのか、チベット人を支持するのか、はっきりさせろ!!