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小一は5月からクラス編成

2007-03-29 00:07:18 | Weblog

小一プロブレム。小学一年生は集団生活ができず、授業が成り立たない。騒ぐ、突然奇声を発する、すぐに暴力を振るい、暴言を吐く。しかも教師に。ほんの少しの我慢ができない。などなど。

 

小一プロブレム対策として、新小一は5月にクラス編成をする学校が出てきた。

http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070327/gkk070327000.htm

 

小一プロブレムの詳細については下記参照。

http://www.city.itabashi.tokyo.jp/gakumu/newpage22.htm

 

新聞記事ですが、「とりわけ目を引くのは時間割だ。入学後は1、2週目とも1時限目は音楽で2時限目は国語。みんなで歌を歌い、お話を聞くことから1日の学習が始まる。「幼稚園や保育園の延長のようなプログラムなので、スムーズに小学校生活に入れる。落ち着かない子供たちが近年増えているが、取り組みを始めてからは『授業が成立しない』といったトラブルは1件もない」と、矢野英明校長は話す」

 

果たしてこれで根本的な解決になるのか?文部科学省お得意の、問題を先送りにしているのではないか?(もちろん、今回は文部科学省の指示ではないが)

 

「・・・先生が直接、子どもに密な接触をすることで動機づけるというよりも、巧妙な教材を工夫することで動機づけようとするならば、仮想的有能感の高い生徒も十分動機づけられることになる。だが、そのような生徒は、いつしか「課題が面白くなければ勉強しない」といった高慢な気持ちも抱くようになると懸念される。すなわち、彼らは社会との相互作用の中で形成された、発達した自律的動機づけを持たないので、好きなことだけはするが、自分にとって嫌いな教科などには、目もくれないようになると考えられる。
 日本の教育学者や教育心理学者がこれまでに盛んに推奨してきた動機づけとは、端的に言えば「楽しく勉強させること」であった。子どもたちが勉強しないのは、私たち楽しく勉強をさせてあげる力がないからだと自罰的に言う立派な先生まで現れる始末である。勉強が、子どもの内側から生じるやる気、いわゆる内発的動機づけに支えられることがよいという主張に異論はない。しかし、学習はそれだけでは進まない、ということもまた真実である。楽しく勉強することが善、苦しんで勉強することが悪という教育そのものが、実は仮想的有能感の形成を助長してきたのかもしれない
速水敏彦『他人を見下す若者たち』(講談社現代新書、2006年) 太字=わし

 

 

巧妙かつ演繹的な単元の導入、興味・関心がもたれるような例文、無味乾燥な知識の羅列ではなく、なるべく具体的でありかつ鮮明にイメージが湧くような具体例などなど(いらん話しをして“笑い”をとっていたのは、ネタとして仕込んだものではなく、喋ってるうちに勝手に“笑い”がとれてるだけですんで、これに関しては永遠に変わりませんわ)。いろんなことを心がけて授業をしてますが、アカンね。しょーもない、始まって20秒で眠くなるような授業をすべての教師が展開して、それに我慢して耐えて、打ち克つことができるような人間を作らんと。無味乾燥な教材で授業をして、勉強や教科の面白さは生徒が勝手に感じたらええねん、との共通認識を持たなあきまへん。学問の面白さは人から教えてもらうものではなく、自分で発見するものだと私確信しています。

 

そうです。勉強とは辛く、面白くないものなのです。楽しく、みんなで仲良く!って言うてる奴は偽善者か、本物のカスですわ。

 

最後に、子どもが自分で考え、自分で答えを導き出した、自分で考え行動した。これらを手放しで褒めたり、喜んだりするのは辞めましょう。子どもが「自分で考えた」ことを錦の御旗として褒め称えるのは、間違った先入観に支配されているからです。こういう人は、あるいみ日教組よりも罪深いよ。教師は「正しい結論」まで「導く」から教師なのです。結論を与えないで結果は自分で出せ!というのは教師の怠慢です。自律的な行動が掛け値なく立派というのは、間違いです、とこないだ某所、某懇親会の席上で思いました。もちろん、すべてはやり方次第なんですがね。やり方には工夫が必要なのは確かですわ。ただ興味がワクワクわくわく授業は手放しでいい授業!とは言えないのだ、とこの度改めて考えさせられたわけです。