こくご食堂

小学生向けこくご塾を創業しました。[こくご]の楽しさを、様々な切り口から発信していきたいと思っています。

「太平洋を渡る」

2021-12-29 19:28:00 | 伝える
三年前から行きたかった場所。

それは、あるチラシから始まりました。

登戸研究所。

はたして、何を研究していた場所なのか?  
そこで行われていたことは、長い間秘密とされていました。

そのチラシには、
登戸研究所で働いた女性が残していた資料の公開と
その女性の話を聞くことができるとありました。

戦前、戦後、
川崎で臨港バスの運転手
横浜で警察官
その後、横浜でタイヤ店を営んだ父に話をすると、

行ってみたい!

行こうね!

と話していましたが、
CORONAの蔓延でそのイベントは中止。

登戸研究所の博物館も、一般開放が中止となりました。

心に残るこの場所。

そして、2021年12月。

もしや、登戸研究所博物館は再開しているのでは?
とホームページをみてみることに。

それは、登戸(正確には生田駅が近い)にある、明治大学敷地内にあります。

なんと!
一般公開しています!
水曜日から土曜日。
電話で予約とのこと。

すぐに電話をしました。
ドキドキ。
もう年末。
行くことができるのか?

「年末はいつまで営業していますか?」

「12月25日土曜日までです。」


ちょうど土曜日は仕事がない。
すぐに午前中の予約をしました。

25日はクリスマス!
私はそんなことも忘れていました。
あまり興味は無さそうですが、夫にも声をかけました。

せっかちな私は、早く家をでため、予約時間の10時にはまだ余裕がありました。

「歩いてみようか?」

携帯のナビを便りに、登戸駅かやてくてく出発しました。


途中、駅周辺再開発の看板!




前回登戸へいったとき、どうしたのか?と思っていた、おもちゃ屋さんの、仮店舗を偶然発見。Nゲージもありました!

大学に到着して、守衛さんに登戸研究所資料館見学の話をすると、
「はい、うかがっています。」
資料館までの道のりを教えてくださいました。



ここか!
三年前から来たかった場所!

それぞれの展示室に、ビデオがあり、詳しく説明がされます。


現在明治大学のキャンパスのある場所は、
登戸研究所でした。

当時の軍事活動をしていた場所

元住吉の平和記念公園の
平和記念館でみた
蟹ケ谷の地下通信基地の写真もありました。


暗室。
館内の方に言えば、暗室体験できたのですが時間がなくなりあきらめました。
次回は是非!

登戸研究所で研究されていたスパイ活動の道具。

この場所でなにをしてのか?
終戦直後、ここでの活動に関するものは全て消されました。

そして、ここでの活動を語ることは、国から厳しく禁止されていたため、それは謎になっていました。

登戸研究所は、途中で活動の拠点が長野にうつされます。

1980年代。
川崎の法政二校の生徒と
長野の赤穂高校の生徒が
登戸研究所について調査をはじめます。

長野に移り住んだ元登戸研究所職員の男性がいました。
大人たちが何度も取材をお願いしましたが、

何も話さない。

という返答。
家族にもご自分の過去をお話されていなかったのです。

長野の赤穂高校の生徒たちは、
その男性が育ていたカボチャを
一緒に育てたい、と親交を深めていきました。

高校生とふれあううちに、
その男性は、
「大人には話さないけれど
高校生のきみたちには話す。」

そこから、登戸研究所の活動が明らかになったそうです。

長野の高校生たちの熱意。
ただの興味本位ではなく、真剣な思いが伝わったのでしょう。

そののち、その男性、
伴繁雄さんは、本を出版します。

戦争が終結して、40年という時間が経過して、登戸研究所の解明が進んだのです。

他にもいろいろ展示がありました。

風船爆弾の模型

実際の風船爆弾はとても大きいものでした。

物資の少ない当時。
日本各地から
和紙とコンニャクの粉が集められました。それか風船爆弾の材料。

もっと、もっと書きたいことはありますが、
それよりも、
是非一度足を運んでいただきたい場所です。

登戸研究所という建物が
川崎のこの場所にあり
どんな活動をしていたのか。

実際に展示や映像をみて、感じていただきたいです。

キャンパス内にある
弥心神社(現 生田神社)にある
登戸研究所跡碑の裏の句

すぎし日は
この丘にたち
めぐり逢う

昭和63年建立のこの碑
このころから、元登戸研究所職員の方々が、当時の出来事を語るようになったそうです。

私は
もっと深く学んでいこうとおもいます。

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