長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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禁門の変戦死者を祀る、維新招魂社

2011年07月19日 | ★長州の招魂場巡り
元治元年(1864)7月19日は禁門の変(蛤御門の変)。
147年前の今日です。
(そりゃま、旧暦ですから厳密には違いますが、こういう日付は新暦に換算する必要はないと思います)


無謀な上京で、長州は朝敵となり、心身ともに徹底的に叩きのめされました。
戦闘で死ななくても、負傷したりはぐれたりして戻ることも叶わず、たくさんの人が道端や河原で自刃しました。


山口県の招魂場に行くと「元治元年七月十九日 於京師 云々」と刻まれた墓碑が本当にたくさん目に付きます。
宇部市にある維新招魂場(慶応2年創建)にある22の墓碑は、その全てが禁門の変の戦死者です。



鳥居の額。
今、境内全体は「宇部護国神社」と言いますが、私はやっぱりこの一角と、この名称に強く惹かれるなあ。








湿気が多く、空気が重いところでした。


ここには「ミニエー銃献納の碑」もありました。
この碑のことはよくわからないんだけど、この記事でも書いたように、旧式の装備で戦って惨敗した仲間に、新式の銃を捧げて慰めたんじゃないかな?と思います。


招魂場のご祭神は、そこの戦死者たちってことがほとんどですが、ここに関しては「主神 福原越後   合祀 禁門の変戦死者」となってます。
福原はこの地の領主だった長州藩の家老で、禁門の責任を取って、同年11月に自刃しました。



護国神社側の明るい境内にある福原の像。


ちなみに「招魂場の石碑に泣かされる」という記事もあります。
これは山口市吉敷。
不意打ちくらって、マジ泣きでしたぁぁ。



どうっっっでもいいが、カーナビ様に任せて、何も考えずに言うとおりに行ってたら、超狭い裏参道に誘導された。なんでじゃ!
医大んとこから川沿いに上がってくれば、デカい看板があって誰でもわかるのに…っていうか、知ってたのにーーー。




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