慶応4年(9月に改元して明治元年)8月20日は、今日10月5日に当たるそうです。
これを書いた5日昼は風もなく雨も降っていませんでしたが、南の海上には大型台風があって、接近とともにスピードを上げるだろうと予報されていました。今は結構は風が吹いています。
この8月20日は、いわゆる榎本艦隊が江戸を「脱走」して北へ向かった日です。
(19日となっているものもありますが、20日になった時=午前零時に出航だった模様)
空は晴れ海は穏やかでした。旧暦の20日(19日の夜)ですから、その時間なら明るい月も出る頃だったでしょう。
しかし、その後天候は急変。猛烈な嵐に巻き込まれ艦隊は散り散りになりました。
1隻-美嘉保-は沈没(乗員はかなり上陸できましたが)。
1隻-咸臨-は損傷激しく投降。
1隻-蟠龍-はなんと1ヶ月後に合流。
ほかの艦も全て損傷し、旗艦「開陽」は舵板をもぎ取られるという大ダメージを受けました。
(同じ時、会津では例の白虎隊が風雨にさらされた記録があります)
天気予報がなかった時代、台風とはどれほど恐ろしいものだったか、と思います。
このあとも榎本艦隊は何故か悪天候にたたられ続けました。
蝦夷地に上陸する時も大荒れで死者が。
庄内支援に行った船-長崎二番-も嵐で座礁。
開陽は江差の暴風で座礁沈没。
宮古湾海戦は暴風雨で作戦通り行かず。
・・艦隊の大半は、戦争ではなく天気のせいで失われていきました。
生まれたての海軍だから、技術の稚拙さももちろんあったと思いますが、とにかく予測できない悪天候に泣かされ続けました。
箱館政府海軍奉行・荒井郁之助は、その後初代の気象台長になっています。
やっぱ思うところがあったのだろうと思います。
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これを書いた5日昼は風もなく雨も降っていませんでしたが、南の海上には大型台風があって、接近とともにスピードを上げるだろうと予報されていました。今は結構は風が吹いています。
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(19日となっているものもありますが、20日になった時=午前零時に出航だった模様)
空は晴れ海は穏やかでした。旧暦の20日(19日の夜)ですから、その時間なら明るい月も出る頃だったでしょう。
しかし、その後天候は急変。猛烈な嵐に巻き込まれ艦隊は散り散りになりました。
1隻-美嘉保-は沈没(乗員はかなり上陸できましたが)。
1隻-咸臨-は損傷激しく投降。
1隻-蟠龍-はなんと1ヶ月後に合流。
ほかの艦も全て損傷し、旗艦「開陽」は舵板をもぎ取られるという大ダメージを受けました。
(同じ時、会津では例の白虎隊が風雨にさらされた記録があります)
天気予報がなかった時代、台風とはどれほど恐ろしいものだったか、と思います。
このあとも榎本艦隊は何故か悪天候にたたられ続けました。
蝦夷地に上陸する時も大荒れで死者が。
庄内支援に行った船-長崎二番-も嵐で座礁。
開陽は江差の暴風で座礁沈没。
宮古湾海戦は暴風雨で作戦通り行かず。
・・艦隊の大半は、戦争ではなく天気のせいで失われていきました。
生まれたての海軍だから、技術の稚拙さももちろんあったと思いますが、とにかく予測できない悪天候に泣かされ続けました。
箱館政府海軍奉行・荒井郁之助は、その後初代の気象台長になっています。
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うちの娘たちは有栖川公園の隣の愛育病院生まれです。祥雲寺には長女が産まれる頃に寄って以来19年ぶりでした。
話は飛びますが、墓道の途中に明治十年卒の海軍五等師大輪忠顕の墓というのがあったのですが、旧幕府海軍の方でしょうか?