中谷正亮(なかたにしょうすけ)。
うーん。
たまに名前が出てくる人ですが、何をした人かと言われるとよく知りません
萩藩士の子で、父は明倫館改築かなんかの責任者なんかもしてたらしい。
本人は吉田松陰より2つ年上で、明倫館時代から秀才だったようです。
その松陰先生と一緒に江戸遊学をした「友人」であり、松陰が萩で幽閉されてからは、訪ねていっては徹夜で議論などし、ついには門人のひとりとなったそうです。
その後、久坂玄瑞・高杉晋作を松下村塾に勧誘したのも彼。
しかし、文久2年、藩命により江戸に行っていた時、急病で亡くなっています。35歳
文久2年では、ちょっと動乱の手前…。
もしあと数年以上生きていたら中心人物になってたかもしれません。
なにせ松陰先生の弟子どころか対等の友人でもあったわけで。
この中谷正亮の墓が、山口市下竪小路(しもたてこうじ)の法界寺にあります。
ありますっていうか、小・中と通学路だったんで、その説明板は何百回となく見てたんですが…。
しかし、検索してみたら、この人のお墓というと「世田谷」ばかりヒットするのです。
確かに、江戸で亡くなっているのだから、あっちに遺体を葬ったと考える方が自然です。
だから山口のは「引き墓」(遺体のないお参り墓)というわけですが、しかしなぜ山口??
萩じゃないのか?
隣には父、忠兵衛さんのお墓があります。
事情がよくわからないままに載せておきます。
…ま、こんな感じでいろんなのものが周囲にあるところに住んでますよっと
そうそう。
法界寺さんは「さばけちょる」(さばけるって方言?あっさりして考えが開けているというニュアンス)んですよ。
先代の住職さんの頃は、お寺の前に面白貼り紙が出されてました。
山口弁で書かれた一言。
「美人。自分のことと思うちょる」とかwww
今の住職さんは、それはされてないんですが、お堂でジャズやインド音楽や色々なライヴが開かれてます。
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たまに名前が出てくる人ですが、何をした人かと言われるとよく知りません
萩藩士の子で、父は明倫館改築かなんかの責任者なんかもしてたらしい。
本人は吉田松陰より2つ年上で、明倫館時代から秀才だったようです。
その松陰先生と一緒に江戸遊学をした「友人」であり、松陰が萩で幽閉されてからは、訪ねていっては徹夜で議論などし、ついには門人のひとりとなったそうです。
その後、久坂玄瑞・高杉晋作を松下村塾に勧誘したのも彼。
しかし、文久2年、藩命により江戸に行っていた時、急病で亡くなっています。35歳
文久2年では、ちょっと動乱の手前…。
もしあと数年以上生きていたら中心人物になってたかもしれません。
なにせ松陰先生の弟子どころか対等の友人でもあったわけで。
この中谷正亮の墓が、山口市下竪小路(しもたてこうじ)の法界寺にあります。
ありますっていうか、小・中と通学路だったんで、その説明板は何百回となく見てたんですが…。
しかし、検索してみたら、この人のお墓というと「世田谷」ばかりヒットするのです。
確かに、江戸で亡くなっているのだから、あっちに遺体を葬ったと考える方が自然です。
だから山口のは「引き墓」(遺体のないお参り墓)というわけですが、しかしなぜ山口??
萩じゃないのか?
隣には父、忠兵衛さんのお墓があります。
事情がよくわからないままに載せておきます。
…ま、こんな感じでいろんなのものが周囲にあるところに住んでますよっと
そうそう。
法界寺さんは「さばけちょる」(さばけるって方言?あっさりして考えが開けているというニュアンス)んですよ。
先代の住職さんの頃は、お寺の前に面白貼り紙が出されてました。
山口弁で書かれた一言。
「美人。自分のことと思うちょる」とかwww
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