明治4年7月5日が命日の松岡磐吉。
最近またいろいろとわかりました。
防衛省防衛研究所が持っている、明治4年の兵部省の文書に、松岡関連が2通あるのを発見!
それもこの7月2日のことで、なんだか命日直前に見つけさせてくれたのかなあって気がしましたよー!!
文書の1つは、糾問所が作成した7月5日のもの。
「当糾問所に預けられていたこの者は、先日から疫病にかかり、
療養を加えたがだんだん重症となって今日に至っては危篤状態に見えたので
先刻特別に医者を呼んだが養生ならず、本日5時頃ついに死去した旨、
獄の当直より連絡があったので届け出ます。 7月5日」
といった内容。
これまで林董が書き残した「熱病で」というのしか、死因にふれたものはなかったのですが、ここで「疫症」(伝染病?)と書かれています。インフルエンザでしょうか?でも真夏だよ。
それから「5時頃死亡」というのも新情報です。
午前か午後かわかりませんが、危篤になるまで医者を呼ばないようなところが夜中に呼んでくれる気はしないので、日中に呼んで夕方死んだって事のような気がする。
てか、もっと早く呼べって話ヽ(#゜Д゜)ノ┌┛Σ
この死亡報告、なんか臭い。
どっかわざとらしさが臭う。
ほっといたくせに、ギリギリ危なくなってから形ばかり医者にみせて、「できるだけのことはしたのですが」みたいに形を整えてる気がするわ。
あの当時だって、獄中で病気になれば家族を呼ぶとか獄外に入院させるとかは普通に行われたんだから、おかしいよ。新政府側のどこかに「処刑するわけには行かないが、死んでくれればベスト」っていう思惑があったのでは、と勘ぐってしまいます。
もう一通は、この文書を受け取った兵部省が翌日作成した文書。
こちらは難読ではっきりわからないのですが、「暑い時期なので、遺体をすぐに仮埋葬したい」という内容です。
当時は火葬があまり行われなかったので、とりあえず埋めてしまって、また改葬するということがよく行われていますが…結果的にちゃんとご遺族のもとに帰ったのかどうかちょっと不安。お寺さんのあのお墓に遺骨が入ってるのかどうか。
しかも糾問所がどこに「仮埋葬」していたのかわかりません。
糾問所は当時でも江戸のど真ん中(現在、東京駅前、丸の内永楽ビルのところ)だったし、広くもなかったから、埋めたのは敷地内じゃないと思う。こういう時は本人の菩提寺と関係なくても、近所とかの”契約してる”寺とかに仮埋葬することが多いみたいですが…。真相は不明です。
<榎本さんたちは赦免が決まってビールを差し入れてもらって祝ったそうですが、そこにもう松岡はいなかった。
だから命日には、”飲みそこねた”ビールをお供えしました。もちろん瓶入りのハイネケンで(笑)>
あと、これは私が見つけたのではなく、江川家文書にあるようだと教えてもらって確認したことなんだけど。
生まれ年も確定できたんだー!!
なんと天保12年(1841・丑年生まれ)です。
つまり、彼は海軍で飛びぬけて若かったんです。
当時は生まれた時を1歳と数え、以後元旦ごとに1つ年をとる「数え年」ですが、満年齢で換算すると(誕生日はわからないけど)
・長崎海軍伝習所に行ったのは満15歳(誕生日が来るまで14歳)
・咸臨丸でアメリカに行ったのは満19歳(同18歳)
・亡くなったのは満30歳(同29歳)
っていう感じね。
私、ずっと不思議だったんだよね。
箱館戦争の後「操船技術の高さ」や「冷静な判断力、落ち着いた指揮ぶり」などが書き残されている人なのに、彼は肩書き的にはいつもトップじゃない(手代「見習」だの、軍艦頭「並」だの)。
しかも父、松岡正平の手紙に「長男来吉は市川へ、次男弘吉は柴へ養子にやり、それぞれ手代の家を継がせました。うちの跡取りは三男の磐吉で、まだまだ子供同然なのですが、格別のはからいで、弘吉と一緒に長崎の伝習所に行くことになりました」とあります。
「未だ小児に等(ひとしく)候」(原文)だなんて、不思議だったんですが、満14やそこらなら納得。ぎりぎり元服を済ませて伝習所に行ったんじゃないでしょうか。
そしてそうなってくると、神道無念流の免許を取ったのは、長崎から戻って江戸の築地の海軍操練所で教授方を勤めていた頃ではないかと思い直しました。
なんだか、興味ない人にはささいすぎることでしょうが、私にとってはもうめちゃくちゃ嬉しい大発見ばかりです。
まだまだ存在を知らない史料があるんだと、ワクワクします。
そんで長崎微熱さんが「語られることがない人は、史料があってもそれが知られないよね。内藤さんが松岡を調べていろいろわかって、きっと松岡も喜んでるよ」って言ってくれて、なんかそうだったらいいなあーと思う命日でありました。
それで、私先日、Wikipediaの「松岡磐吉」をほぼ全部書き換えましたwww
だって余りにも簡単で、しかもその短い文に間違いが山ほどあったので、我慢ならず(笑)
こちら。
また書き足しそうな予感ですがww
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最近またいろいろとわかりました。
防衛省防衛研究所が持っている、明治4年の兵部省の文書に、松岡関連が2通あるのを発見!
それもこの7月2日のことで、なんだか命日直前に見つけさせてくれたのかなあって気がしましたよー!!
文書の1つは、糾問所が作成した7月5日のもの。
「当糾問所に預けられていたこの者は、先日から疫病にかかり、
療養を加えたがだんだん重症となって今日に至っては危篤状態に見えたので
先刻特別に医者を呼んだが養生ならず、本日5時頃ついに死去した旨、
獄の当直より連絡があったので届け出ます。 7月5日」
といった内容。
これまで林董が書き残した「熱病で」というのしか、死因にふれたものはなかったのですが、ここで「疫症」(伝染病?)と書かれています。インフルエンザでしょうか?でも真夏だよ。
それから「5時頃死亡」というのも新情報です。
午前か午後かわかりませんが、危篤になるまで医者を呼ばないようなところが夜中に呼んでくれる気はしないので、日中に呼んで夕方死んだって事のような気がする。
てか、もっと早く呼べって話ヽ(#゜Д゜)ノ┌┛Σ
この死亡報告、なんか臭い。
どっかわざとらしさが臭う。
ほっといたくせに、ギリギリ危なくなってから形ばかり医者にみせて、「できるだけのことはしたのですが」みたいに形を整えてる気がするわ。
あの当時だって、獄中で病気になれば家族を呼ぶとか獄外に入院させるとかは普通に行われたんだから、おかしいよ。新政府側のどこかに「処刑するわけには行かないが、死んでくれればベスト」っていう思惑があったのでは、と勘ぐってしまいます。
もう一通は、この文書を受け取った兵部省が翌日作成した文書。
こちらは難読ではっきりわからないのですが、「暑い時期なので、遺体をすぐに仮埋葬したい」という内容です。
当時は火葬があまり行われなかったので、とりあえず埋めてしまって、また改葬するということがよく行われていますが…結果的にちゃんとご遺族のもとに帰ったのかどうかちょっと不安。お寺さんのあのお墓に遺骨が入ってるのかどうか。
しかも糾問所がどこに「仮埋葬」していたのかわかりません。
糾問所は当時でも江戸のど真ん中(現在、東京駅前、丸の内永楽ビルのところ)だったし、広くもなかったから、埋めたのは敷地内じゃないと思う。こういう時は本人の菩提寺と関係なくても、近所とかの”契約してる”寺とかに仮埋葬することが多いみたいですが…。真相は不明です。
<榎本さんたちは赦免が決まってビールを差し入れてもらって祝ったそうですが、そこにもう松岡はいなかった。
だから命日には、”飲みそこねた”ビールをお供えしました。もちろん瓶入りのハイネケンで(笑)>
あと、これは私が見つけたのではなく、江川家文書にあるようだと教えてもらって確認したことなんだけど。
生まれ年も確定できたんだー!!
なんと天保12年(1841・丑年生まれ)です。
つまり、彼は海軍で飛びぬけて若かったんです。
当時は生まれた時を1歳と数え、以後元旦ごとに1つ年をとる「数え年」ですが、満年齢で換算すると(誕生日はわからないけど)
・長崎海軍伝習所に行ったのは満15歳(誕生日が来るまで14歳)
・咸臨丸でアメリカに行ったのは満19歳(同18歳)
・亡くなったのは満30歳(同29歳)
っていう感じね。
私、ずっと不思議だったんだよね。
箱館戦争の後「操船技術の高さ」や「冷静な判断力、落ち着いた指揮ぶり」などが書き残されている人なのに、彼は肩書き的にはいつもトップじゃない(手代「見習」だの、軍艦頭「並」だの)。
しかも父、松岡正平の手紙に「長男来吉は市川へ、次男弘吉は柴へ養子にやり、それぞれ手代の家を継がせました。うちの跡取りは三男の磐吉で、まだまだ子供同然なのですが、格別のはからいで、弘吉と一緒に長崎の伝習所に行くことになりました」とあります。
「未だ小児に等(ひとしく)候」(原文)だなんて、不思議だったんですが、満14やそこらなら納得。ぎりぎり元服を済ませて伝習所に行ったんじゃないでしょうか。
そしてそうなってくると、神道無念流の免許を取ったのは、長崎から戻って江戸の築地の海軍操練所で教授方を勤めていた頃ではないかと思い直しました。
なんだか、興味ない人にはささいすぎることでしょうが、私にとってはもうめちゃくちゃ嬉しい大発見ばかりです。
まだまだ存在を知らない史料があるんだと、ワクワクします。
そんで長崎微熱さんが「語られることがない人は、史料があってもそれが知られないよね。内藤さんが松岡を調べていろいろわかって、きっと松岡も喜んでるよ」って言ってくれて、なんかそうだったらいいなあーと思う命日でありました。
それで、私先日、Wikipediaの「松岡磐吉」をほぼ全部書き換えましたwww
だって余りにも簡単で、しかもその短い文に間違いが山ほどあったので、我慢ならず(笑)
こちら。
また書き足しそうな予感ですがww
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これですよね。
間違いあるかも知れませんが、
箱館流族降伏人
松岡盤吉
右は兼て当省へ御預相成居候所 仮埋之侭可差置事
今般別紙之通り病死之趣糺問
司ヨリ届出候ニ付テは一応相伺之上
取計可申之所炎暑之折柄寸
刻も此侭難差置候間先侯埋
為致置候尚此未死体御所置之
義御伺申上候間急々
御沙汰被下度此如申達候也
辛未
七月六日 兵部省
弁官御中
こうでしょうか。”へ”と”侭”がちょっと怪しいかも。ご指摘の通り微妙に杜撰な対応が感じされる文書ではあります。
ところで松岡磐吉はもしかしたら最初は「いわきち」と読んでいたのではないかとも考えています。
何故かというと「松岡岩吉」と記されてる記録もあって、
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/rung/db_param
こちらの地域蘭学者門人帳人名データベースだと、川本幸民の門弟として「松岡岩吉 江川付」の名前が現れます。川本に何時入門したのかは不明なんですが、蕃書調所教授だった時代かなと。
また三ノ輪円通寺には松岡岩吉の名を刻んだお墓があって、近藤勇や土方歳三と並んで祀られています。
ご存じかも知れませんが一応書かせて貰いました。
名前についてはご子孫が「ばんきち、と伝わっています」とおっしゃっていることと、「盤」の字で書かれたものが大量にある(磐より多いくらい)ので、やっぱりそうかなあと思っています。「盤」では「いわ」とは読めませんので。
円通寺のも知っていますが、数少ない「岩」表記は、「磐吉」という文字で名を知った人が「いわきち」と読んで、それを「岩吉」と書いてしまったのではないかしらと推測しております^^
不明な点が多い人物で、特に没年が気になっていたので、知る事ができて良かったです。
本当にありがとうございました。
来年の彼の命日にはHeinekenを飲みたいですね。
とても嬉しいです!
私が知ってることだったらなんでもお伝えしますのでいつでもメールください^^
akiller_2006@mail.goo.ne.jp
没年はまあまあ書かれているものもありますが、没日はごく最近出たもの以外書かれてませんね。それって私が書いたwiki見て書いたんじゃないか疑惑w
最近ブログを更新してないのですが、弟が箱館戦争の時に蟠龍の乗組員だったこととかわかりました。兄弟船か!!
ぜひまたコメントまたはメールなど下さい。嬉しいです。
メールにお返事出したのですが、そのまま返信しても戻ってきてしまいます。
hotmail以外のアドレスがありましたら、もう一度ご連絡いただけないでしょうか?