こちらで書いた「町田騒動」のことがわかりました!
(ま、こーいうモンは、知ってる人からは「えっ、なんでこれ知らんの?」って感じかもしれんが^^;)
萩往還の一升谷に説明版がありました~!
私はブログ書く時、説明板とか本とかネットの記述とかを丸写ししないで、とりあえず自分の言葉で書くことにしてるんですが、この説明板の文章はなんとなく心に来たので、例外でそのまま紹介したいと思います。
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町田梅之進は、旧山口藩士族で、前原一誠が明治9年10月、熊本県の敬神党(神風連)や福岡県の秋月の不平士族らの挙兵に呼応して、新政府に反省を求めようとした萩の乱に加わった。
翌10年、西郷隆盛が挙兵した時、町田は萩の乱の罪で自宅に禁固中であったが、阿武萩の同志と謀り新政府の施策を正すために山口県庁を襲い、九州の西郷軍に合流しようと企てた。
同志の中に密告したものがあり、警察は5月30日町田を捕らえたが、その夜、町田党は警察を襲って町田を奪い、山口に向かう勢いを示した。
県庁軍と町田党は佐々並(ささなみ)で遭遇して相対した。
6月1日、県庁軍は町田党を押し返し明木(あきらぎ)をめざした。
一升谷で町田梅之進の本隊と遭い、隊長の秋良(あきよし)貞臣は、抜刀して突撃する町田にピストルで対戦した。
町田は右こめかみを撃たれ、同志に支えられてようやくここまで退き、刀を喉に立てて自害した。行年30歳。
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写真の場所は、萩往還が廃道になっていた頃に、町田党を弔うために、新しい道の側に作ったものかもしれません。
同じ写真ですがもう一度。
「抜刀で突撃し、ピストルで撃たれた」というところが、象徴的かもしれません。
不平士族の反乱は弁護するようなことでもないのかもしれないけど、すごく哀しみを感じてしまい、なにか惹かれます。
私の中の「萩藩士族」の血が騒ぐのかww
まっ、うちのご先祖さんは、禄を失って萩にいてもょーがないやってんで、さっさとあきらめて東京に出て郵便局長やってたんですけど。
そういう人って、故郷の士族反乱のニュースをどういう気持ちで聞いてたんだろう…?
それにしても「県庁軍」ってのがまた斬新な言葉の響きだなあ。
町田さんのご冥福を祈ります。今度通る時はお供えしようっと。
町田さんを撃った秋良さんは、その後なぜか防府の塩田開発事業に携わってます。
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町田梅之進は、旧山口藩士族で、前原一誠が明治9年10月、熊本県の敬神党(神風連)や福岡県の秋月の不平士族らの挙兵に呼応して、新政府に反省を求めようとした萩の乱に加わった。
翌10年、西郷隆盛が挙兵した時、町田は萩の乱の罪で自宅に禁固中であったが、阿武萩の同志と謀り新政府の施策を正すために山口県庁を襲い、九州の西郷軍に合流しようと企てた。
同志の中に密告したものがあり、警察は5月30日町田を捕らえたが、その夜、町田党は警察を襲って町田を奪い、山口に向かう勢いを示した。
県庁軍と町田党は佐々並(ささなみ)で遭遇して相対した。
6月1日、県庁軍は町田党を押し返し明木(あきらぎ)をめざした。
一升谷で町田梅之進の本隊と遭い、隊長の秋良(あきよし)貞臣は、抜刀して突撃する町田にピストルで対戦した。
町田は右こめかみを撃たれ、同志に支えられてようやくここまで退き、刀を喉に立てて自害した。行年30歳。
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写真の場所は、萩往還が廃道になっていた頃に、町田党を弔うために、新しい道の側に作ったものかもしれません。
同じ写真ですがもう一度。
「抜刀で突撃し、ピストルで撃たれた」というところが、象徴的かもしれません。
不平士族の反乱は弁護するようなことでもないのかもしれないけど、すごく哀しみを感じてしまい、なにか惹かれます。
私の中の「萩藩士族」の血が騒ぐのかww
まっ、うちのご先祖さんは、禄を失って萩にいてもょーがないやってんで、さっさとあきらめて東京に出て郵便局長やってたんですけど。
そういう人って、故郷の士族反乱のニュースをどういう気持ちで聞いてたんだろう…?
それにしても「県庁軍」ってのがまた斬新な言葉の響きだなあ。
町田さんのご冥福を祈ります。今度通る時はお供えしようっと。
町田さんを撃った秋良さんは、その後なぜか防府の塩田開発事業に携わってます。
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町田梅之進は私の曾祖父の兄に当たります。
梅之進の直系は途絶えておりますが町田家は存続しております。
現在静岡に在住しておりますが私自身は当地には訪れたことがありません。
いずれ機会があれば訪れたいと思いつつ行けずにおります。
ブログに上げていただいてる方もいらっしゃることは嬉しく思いコメントさせていただきました。
初めまして。もうびっくりです。
見てくださってありがとうございます。
違う話など伝わっていましたら教えてください。
コメント返しを書いていたら、ありえなく長くなってしまったので、記事として投稿しました。(お差支えありましたら削除しますのでおっしゃってください)
本当にご訪問感激です。ありがとうございました。
梅之進は当時海外留学をする予定があったほど出来た人だったそうですが萩の乱への算段を政府軍に急襲され捕縛、禁固刑を命ぜられ自宅謹慎となりましたが、その折も裏口から一誠の家に出入りし機会を窺っていたそうです。
これ以前にも酒席のいざこざから海外留学を召し上げられたりと波乱万丈の人生だったそうですw
もしその時海外に行っていたら歴史はまた変わっていたのかもしれませんね。。。
前原家の隣だったとは。
歴史に「もし」を言えばきりがないのですが、リアルな話を聞くと特に「もし」と考えてしまいますね。
梅田さんはブログやホームページはお作りではなのでしょうか。
こういうエピソードをどこかに載せて発信して下さったらいいなあ。
町田騒動に関しては、増補 萩の乱 前原一誠とその一党
松本二郎著 マツノ書店発行
アジア歴史資料センターで
6月2日午後8時山口木梨大書記より報 山口県庁出張所
参謀部日録 6月2日
以上が容易に閲覧出来ると思います。西南紀伝も同様です。
町田騒動の判決文(明治10年6月22日)の一部である公文書資料と確認できたのが出てきまして、内容読む限りにおいて
当時の参加者がどのようにして参加したのかが判明しました。
これらの資料については松陰神社の学芸員さんに確認してもらい、町田騒動の判決文だということがわかり、当時の参加者がどのように参加したのかがわかる判決文となっておりました。
また、参加者の中には脅迫されたり、金銭を受け取って参加した人もいた模様でそれらも判決文に書かれていたようです。