長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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長崎本蓮寺~松本良順・島倉伊之助寓居地

2013年12月14日 | ★その他歴史がらみ
3日間の長崎。
1日目(11/22)はフリーで、微熱さんと松岡&海軍三昧。
2日目と3日目(11/23.24)は西鉄旅行の「晋作伝プロジェクト 晋作と龍馬が愛した町・長崎」ツアーに乗っかりました。

で、ツアーしょっぱなに行ったのが本蓮寺です。


ここには「勝海舟寓居の地」のでかい石碑がありますが、わたし的にはここは松本良順島倉伊之助(司馬凌海)寓居地としてインプットされてます。

いや、伝習所ちょっと遠いんですけどなんでここ?




松本良順は一応「海軍伝習所」に籍を置きながら、軍医ポンペのもとで「日本初の、系統立てられた西洋医学」を学んでいました。
その後ポンペの名を聞いて全国から伝習生が押し寄せたので、独立して医学伝習所として機能し始め、さらには「日本初の西洋式病院」をポンペとともに建てて運営します。
この西洋式の病院というのは、単にベッドであるとかそういったことではなく、「医者は病気を診るのだ」という信念に基づいたもので、患者の身分を問わなかった点で画期的なものでした。


島倉伊之助(のち司馬凌海)は、新潟佐渡出身の語学の天才で、独学で(しかもあっという間に)オランダ語、英語、ドイツ語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、中国語などを身に付け、その流暢さはドイツ人に「あなたは何年ドイツにいましたか?」と言われたほど。
外国人の言葉をその場で漢文に直したり、日本語にない医学用語を瞬時に創作したりという異能を発揮して松本を手助けした人物です。
しかし彼は読んだ本をみな暗記できるような能力はあっても、それを応用することができず、語学の天才でありながらコミニュケーション能力に欠け、なかなか人との調和が困難だったらしい。
おそらくアスペルガー症候群だったのではないかと言われていますが、松本だけは彼を可愛がっていました。


司馬遼太郎の「胡蝶の夢」には、こんなシーンがあります。
 松本が本蓮寺目指して坂を上ってくると石段に誰かが座っている。
 佐渡から呼び寄せた伊之助ではないか?と思ったがその人は立ち上がりもしない。
 近づいてみるとやはり伊之助で、嬉しくて涙で顔をグチャグチャにしてるくせに、立ち上がりもしなければ挨拶もせず、今夜の飯はどうしたらいいんですかとか言うのです。

石段を見ながらそのシーンを思い出しました。
私は松本良順イノも大好きなんじゃーい!特にイノ、付き合ったら腹立つかもしれないけど、いとしい~!


んなわけで、ここは私にとってそういうツボの場所だったんですが、ツアーは石段下での説明だけだったし、上がったところで建造物は全部原爆で消えて、戦後建て替えてるって知ってたのでまあいいかなーと。


で、帰ってよく見たら、こんな↓写真しか撮ってなかった私ってどうなん・・・ばかww


 本蓮寺に貼ってあったんだよw



ついでといっちゃなんですが、このお寺の墓地には海援隊士、沢村惣之丞のお墓があります。
長崎は港を囲むようにできた街で平地が少なく、お寺の多くは坂のどん詰まりに建ってて、そのまた裏の高いところに墓地があるっていうパターンが多いようです。
なので、お墓は坂の上の上・・・_ノ乙(、ン、)_
ツアーではカットでありました。



【おまけ】写真がなくて寂しいので、長崎で買ったもの2つw



セブンイレブンで買った、豚角煮おにぎり~w
それと、なんていうのか知らないけどお店オリジナルと言ってた、染布で作ったバッグです。
「袴に革靴」のデザインがいいでしょ~?
当然、坂本龍馬を意識したデザインなんでしょうが、わたし的には「海軍伝習生デザイン」だもーんw
伝習生、まだ和装でしたが、艦上でだけは靴だったんですよ!




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