長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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五代ともちゃんは同級生である

2016年01月20日 | ★松岡磐吉・旧幕府海軍・箱館等
私しかうひょうひょしないネタ。

「あさが来た」でお馴染みの五代才助友厚・薩摩藩)、日赤作った佐野常民(佐賀藩)、アタシの(←ヤメロ)松岡磐吉(幕臣)は、みんな長崎海軍伝習所同期生(二期)である。
まあ箱館戦争で松岡が沈めちゃった朝陽艦長、中牟田倉之助(佐賀藩)もそう。


ちょっと面白いのは、当時は幕臣と諸藩士の間には大きな身分差があったのに、伝習所では仲良しとまではいかなくても、普通に知り合ってる。
中牟田が「幕臣の榎本とか井沢とかみんな知ってたし、松岡はわしの船沈めた本人だしw、薩摩の五代も知ってた」とか言ってます。
ついでに「あと甲賀(源吾)はいたかどうか記憶にないわー」とか語ってるけど甲賀は長崎の伝習所にはいません。


最先端を学ぶエリート校でもあった伝習所。
身分門閥じゃなく、実力がなければ船は安全には動かせない。門閥だけの艦長になど誰も命を預けたくありません。
先進技術を学ぶことが、はからずもじわじわと身分制の崩壊を作っていった、そんな場所でもありました。
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甲賀郡之丞のことなど (skydog)
2016-09-13 07:19:16
甲賀源吾がらみで此処に来ました。

ご承知かもしれませんが、甲賀郡之丞(掛川藩士,150石取り,鑓奉行)は甲賀源吾の兄で、明治維新後は千葉県の松尾に移住しています。
ところで海軍長崎伝習生を送り出している藩は、佐賀・福岡・鹿児島・萩・津など、堂々たる国持ち大名ばかりなのに、掛川藩からたった1人、甲賀郡之丞が送り込まれているのが不思議です(田原藩からも1人送り込まれていますが、これは砲術家である家老の村上範致の意向によるものでしょう)。

掛川藩は転封先の松尾で稜堡式城郭を築城していますが(廃藩置県で完成前に中断)、国内に残る稜堡式城郭の設計者は武田斐三郎(五稜郭),大鳥圭介(四稜郭),大給恒(龍岡城)と錚々たる兵学者たちなのに、掛川藩にそのような兵学者がいたとも聞きません。

また掛川藩校「徳造書院」は万延元年(1860年)に「教養館」と改称されています。ところで「教養」の初出は明治3年の『西国立志編』(ただし、現在の「教育」の意味)とされていますが、その10年前に「教養」の語を使用しているのも不思議です。

これらの不思議を解明したいと博雅の士に教えを乞うているところです。何かご存知でしたら、ご教示くださいますようお願い申し上げます。
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