goo blog サービス終了のお知らせ 

長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
★最初に【まず必読】をご覧下さい

招魂場の石碑に泣かされる

2010年11月14日 | ★長州の招魂場巡り
山口市の吉敷(よしき)に、天神山という、ごくごくちっちゃい小山があり、そこ、石のナニカだらけです。

登って反対側に下るのに、何も見ないで通れば3分とかからないんですが、見はじめると30分はかかるという。

この天神山は、吉敷招魂場でもあります。
このすぐ隣に館があった吉敷毛利家が、慶応2年11月に作ったもの。
幕末京都での戦死者から四境戦争、戊辰役、西南戦争、日清日露、太平洋戦争まで幅広くカバーしとります。





14代毛利親直(ちかなお)は戊辰戦争では高森口総督をつとめ、明治10年西南戦争で戦死しました。
戦死者なので、歴代墓所とはまた別にここにも招魂墓があります(改名したため、墓名は上野五郎 ←めっちゃ庶民的…)。

みんなとおんなじサイズなのが、ちょっといいな。

隣は毛利登人(のぼる)
吉敷毛利家一門出身(萩生まれだけど)で、高杉晋作が講和会談でルシファー家老を演じた時の副使だった人。
その後の俗論派政権の時に野山獄に投獄され、処刑されました。
墓は萩の東光寺にあるけど、ここにも招魂墓があります。



で。
本日のハイライト

こういう碑もあるんですよね。



「報国忠士霊神」
あー、一瞬、なんか太平洋戦争あたりの押し付け忠誠みたいな語句に見えたんです。

でも、ふっと石のサイドを見たら・・・・・・



元治元年甲子七月十九日

禁門の変の戦死者だーーーっ!

いっきに、うおおおおおッッッ!とガン見っ



35人…。
吉敷毛利家がらみの戦死者だけで35人。

名前を見ると、苗字+諱(いみな)のようなので、武士あるいは武士扱いされた人たちなんでしょうね。

wikipediaによると、吉敷毛利家は
「家臣の服部哲次郎が宣徳隊を結成するなど、禁門の変に参加。藩内の抗争では奇兵隊以下の三隊とともに俗論党と戦った」
とあります。


いやもー。

なにげに見て、こういうストライクな日付を突きつけられると、泣きそうになっちゃったよう
そして名前が一人ひとりあると、それぞれの人生、それぞれの家族があっただろうになあ~とか、ひどくリアルに思えるんでした

しかも吉敷毛利家って正義派だったんだ??
俗論じゃないんだ!  これびっくり。



この場所は木がうっそうと繁っていて薄暗くて湿気が多い。見よ地面のコケ。
しかも誰のか良くわからん、やたらと立派なお墓もあったり、他にも石碑が色々あったりします。
・・間違っても子どもは遊びに来ないな、名前は「天神山公園」だけど。




おまけ。
諱で思い出した。

姓(源平藤橘=げんぺいとうきつ)や諱など、昔の人の名乗りについて、すごくわかりやすく書かれているのを、貼っておきます。

こちらです。

ちなみに我が家の源平藤橘は不明です。伝えとけよっつの
じゃ、内藤昶藤原春雪 あたりで(意味ナシ ほえーっと消える春の雪でいいですww)

そういえば中学生の頃(なぜ!どういう中坊!)に雅号をつけた(別にミヤビなことはしないのに)。
「春雀」(しゅんじゃく)という。
今考えるとちょっとアレなので、雅号は「春月」にしとこう(ぼーっとしてるからw)。

春から離れろ。




幕末維新バナーを押してもらえると、励んじゃうよっと。
にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へにほんブログ村
トップページ上、ピンクの「山口blog」の方もお願いします。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 山口政事堂の堀、砲台、藩庁門 | トップ | 合掌。晋作の曾孫他界 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。