長州に棲む日日

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山口政事堂の堀、砲台、藩庁門

2010年11月13日 | ★幕末維新の長州
1週間近くも経って書くなっつー話ですが、この前の日曜日(11月7日)、
「山口県地方史研究会」
っつーものに、半分だけ(だめじゃん)参加してきました。

前半の講演に行けなくて、後半の遺構現地見学だけもぐりこんだという…。

今回、テーマが「山口御屋形」、つまり山口政事堂で、いろいろと役に立つ話があったに違いないんですが、途中参加なんでさっぱりわかりません(なら書くな…)。


いや、それでも書くのは、遺構見学がけっこう面白かったからです。



↑誰でも知ってる「県庁のお堀」。
私はかなり大きくなるまで、日本中、県庁というものには必ずお堀があるんだと思いこんでましたわ…

藩政時代の堀でした…。


ここって「山口城」とも言われますが、実際は一国一城令で、長州の城は萩だけ。
ここはあくまで「ちょこっと使う政事堂なのよ」ってことで幕府をごまかしてます(実際、幕府に取り壊せと言われたこともあります。←無視したけど)。

「ちょこっと使う政事堂」のわりに、ちゃんとお堀があるってのは…あきらかに軍事的防禦のためであることムンムンじゃないすか

しかも私、この日初めて知ったんですが、

政事堂の後ろの高台が砲台だった

そうで…。
どひゃーーっ

文久3年、長州。
危機管理意識高いわー




こんな石垣も残ってるんですが(うちの犬の散歩コース…)、下の大きい石んとこが当時のもの。
上のちっちゃい石は、のちに積んだもので、当時はここは土を固めたものだったそうです。
つまり「土塁」です。

言われてなるほどと思ったんですが、砲撃を受けた時に、石垣より土塁の方が、衝撃を吸収するから被害が小さいんだそうです。
石だと砕け飛び散るから、けが人が増える。


それにしても、その砲台から砲弾は発射されたことがあるのでしょうか?
なさげな気がするが、一番危なかったのは、幕末じゃなくて、明治の脱隊騒動の時かもしれない予感…





藩庁門。
かつて私が習字を習いに行く時に通ってた門(←誰もそんなこと聞いてない)。

ここの前で長い解説があったんですが、長すぎてだんだんわからなくなったんですが(メモリ少なっ)、とにかく残ってる図面と、位置が全然違うんだそーそうです。



図の黄色の矢印で指したのが、図面上の門。緑が今の位置。
90度回っちゃってます。


みんなここを通ったんだなあーーーっていう長年の感慨が一瞬でコケましたが、まあこれが政事堂の敷地に建っていたという事実は変わらないし、なんたって、よくぞ残っててくれたと、それだけで本当に嬉しいです。


このあと私はダッシュで離脱して吉敷の招魂社に行ったのだった。
そして、ちょっと泣きそうになったのだった。

続きはwebで。 ←ここなんだよ



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1 コメント

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Unknown (山笑)
2010-11-14 11:45:30
先日はお疲れ様でした。
僕も藩庁に砲台があったとは知りませんでした。山口御屋形は、軍事施設が整った、西洋式城郭じゃったんですねえ。驚き入りましたいね。
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