長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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5月11日 永倉くん溺死の真相

2014年05月11日 | ★松岡磐吉・旧幕府海軍・箱館等
続・美味しすぎて死にそうな、山内六三郎書き残しの箱館戦争の記録。

考えてみれば、宮古湾海戦の時は林董が、箱館総攻撃の時は山内六三郎が蟠龍に乗り組んでいたとは、なんて幸運(いや、私にとってですw)
「ほんとに実在したのかw」とか言われちゃう松岡磐吉のエピソードを残してくれたこの二人に大感謝です。
(宮古湾の時は山内も蟠龍にいたんですが、この時のことはまた別に…)


さて、折しも明治2年5月11日、今日と同じ5月11日(ほんとは旧暦だからもっと夏だけど)。
蟠龍の士官見習いで砲手の永倉伊佐吉が放った一弾が、敵「朝陽」の火薬庫を直撃し、大爆発を起こして2分足らずで沈んだ。
日本史上初めて、軍艦が砲撃によって沈められたという戦闘でもあります。しかも轟沈。


で、山内文書。

この時、我々乗組員一同はみな手を上げて飛び跳ね、踊った。
砲手は見習士官の永倉伊佐吉で、みな集まって彼を胴上げした。


しかし、大殊勲の永倉は、この5月11日が命日になります。


この日、海戦は未明に始まり午後になっても続いていた。
回天は前日機関が破損し動くことができなかったので、浮き砲台となって激戦したが、午後に至って艦内に火を放ち、荒井郁之助林董ら乗組員はみな五稜郭に入った。

わが蟠龍はただ一隻屈することなく港口に進んで敵艦隊と激戦したが、弾丸を撃ち尽くし遂になすすべがなくなり、港内に退いた。
機関もまた損傷し、進退もきわまる状態になった。

この時艦内を見ると、ボートは皆打ち砕かれていて、使えるのは艦尾に吊ってあったカピテーンボート(艦長用小艇か?)ただ1つだけで、水夫2人がこれに乗って海岸の小舟を奪ってくることになった。

当時、敵は既に箱館を占領し、弁天台場だけが残っていた。
船を取りに行った者がなかなか戻らないので、永倉が奮然と服を脱ぎ捨て海に入り、「艦長のために小舟を奪ってくる」と言い出した。
皆これを止めたが、永倉は聞き入れず「俺は既に朝陽を沈めた。生命など惜しくない」と、ついに海に飛び込んで抜き手を切って進んだが、不幸にも小舟まであと5~6間(10m前後)のところで溺れて姿が見えなくなり、皆泣き悲しんだ。

ようやく先に行った者が押し送り船を持ち帰ってきた。
この間、艦内を見回ったところ、海軍にとって最も大切な合図簿(シグナル、とフリガナ有り)があったので、私は艦尾の旗を下ろしてこれを包み、空砲弾をつけて海底に沈めた。




いやー、その場にいた人の書き残し、リアルです。
永倉が舟を取りに行って途中で死んだというのは他でも書かれてるけど、こんなやりとりがあったなんて。
しかも「艦長のためにとかあああああ松岡、愛されてるーーー ←馬鹿。


合図簿というのは信号の暗号表なんでしょうね。
そういうものがあったのかー!
始末した山内君はとても偉いのですが、「艦尾の旗」は下ろしていいのか…艦尾ということは日章旗か。
船が旗を下ろすのは「降伏」を意味してしまうが、艦尾のだったらいいのかなあ(笑)

この日、戦いを見ていたイギリス人たちは、たった1隻になった蟠龍が最後まで戦うとは思ってなかったそうで「おおお、まだ旗を下ろさないな」とか言いながら見てたらしい。


この見習士官永倉伊佐吉については、知る限りまったく史料がありません。
日本史上初という記録を作った人ですが、知られることもありません。
命日にこの記事を書けてよかったな
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