長州に棲む日日

[PC推奨]直参と萩藩士の子孫で長州在、でも幕府海軍・箱館海軍松岡磐吉大好き。
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バンカラ学生に迫力勝ちw

2011年07月02日 | ★日清日露&明治
日本の「海軍兵学校」は明治はじめから、太平洋戦争の終戦まであった、海軍将校の養成学校です。
長崎海軍伝習所 → 築地軍艦(海軍)操練所、と続いた幕府時代の海軍教育の、その後の姿とも言えます。

「江田島の赤レンガ&真っ白の制服」「エリート意識が強く(実際エリートなんだが)、貴族趣味」というイメージの海軍兵学校やその出身者ですが、学校ができた頃の学生は、そーーーとーーーーバンカラだったそうですww

明治初年の学生は、10代で戊辰戦争を経験した猛者が多く、デキない教官は全く尊敬されずにひどい目に遭ってたとか。
山本権兵衛なんか、そのワルガキの筆頭だったらしいw
自分は実戦経験があり、教官のほうにはないってことで「実戦ではそんなことはありません」と反論しては大モメしてたらしいですw
しかもこの時代の学生、立小便はする、乱闘騒ぎは起こす、学校の机はぶっ壊す、盗んだバイクで走り出す(ウソ)と、のちの海軍兵学校からはちょっと想像がつかない暴れっぷり。


そんな中、生徒をピシッと抑え、かつ学内の旧藩対立を解消しようと努力したのが、2代目の校長だった中牟田倉之助(旧肥前佐賀藩士)。

しかも中牟田の顔にはひどい火傷のあとがあり、それははからずも「激烈な実戦経験を持っている」ことを見せ付けているものでもあったので、生徒もその迫力に気おされていたそうです。


(写真じゃわかんないですね…。まあこれは火傷してから年数も経ってるし…)


で、その火傷はなんでできたかと言うと、アレじゃん…、アレですよ…。


明治2年5月11日、箱館湾海戦の時ですわ。
そうなんです、松岡磐吉が艦長を務める「蟠龍」と交戦した「朝陽」。
この朝陽の艦長が中牟田でした。

二人は長崎海軍伝習所の同期…。
まさかの敵味方となったこの日、蟠龍の放った一発が朝陽の火薬庫を直撃、朝陽の船体は真っ二つに折れて2分も経たずに轟沈。
日本初の轟沈記録なんです、これ。



朝陽では50余名が爆死、溺死。
中牟田は爆発の時に海に投げ出され、火傷を負っていたものの、観戦していた英国軍艦Pearlに救助され一命を取り留めました。


という時にできた火傷のあとで、ワルガキをビビらせていた中牟田君でした。
ちなみにこの中牟田、伝習所でカステラ大食い大会やった時、ひと窯分食って優勝したらしいw

中牟田君、大正5年没だって…。
松岡より45年も長生きじゃん(・ε・)  ちぇ、いいなー。 ←そういう問題じゃない。




オマケ。

海軍兵学校で有名なのは「五省」ってやつ。
おぼろげにしか知らなかったので、今ググってみたら、昭和7年にできたんだそうで、なんだ、新しかったんだ…。

(以下、Wikiより引用)
 一、至誠に悖(もと)る勿(な)かりしか
    真心に反する点はなかったか
 一、言行に恥づる勿かりしか
    言行不一致な点はなかったか
 一、気力に缺(か)くる勿かりしか
    精神力は十分であったか
 一、努力に憾(うら)み勿かりしか
    十分に努力したか
 一、不精に亘(わた)る勿かりしか
    最後まで十分に取り組んだか


でもこれ、普通にいいこと言ってますよね。
別に軍国主義とかじゃなくて、学業とか仕事とかでも通用するよね。




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