徒然なるまままに

展覧会の感想や旅先のことを書いてます。

藤田嗣治展 東京国立近代美術館

2006-04-20 | 美術
藤田嗣治展
LEONARD FOUJITA
東京国立近代美術館
2006年3月28日~5月21日

生誕120周年を記念した藤田嗣治展行ってきました。20日から木・金・土曜日は夜20時まで開館という情報をNHK日曜美術館で見て、それならば、木曜日ならば、ゆっくりと鑑賞できるだろうと狙っていきました。予想は的中。ゆっくりと楽しめました。24日目の20日に10万人目の入場者があったということですから、プラド美術館に比較すれば(すでに30万人を記録した。)どちらにしろ混雑はどうということはないでしょう。

私にとって、藤田嗣治(1886-1968)は、戦争画家などという経緯は全く抜きに、ブリジストン美術館に展示されている《猫のいる静物》などの作品を見て好きになった画家です。乳白色の白、その白と黒の対比、猫の表情でしょうか。私が鑑賞した記憶があるのは、1986年に小田急デパートでの回顧展、それに引き続き1988年から1989年にかけて東京パリ友好提携記念レオナール・フジタ展(東京都庭園美術館)。後者は、当時の私にしては珍しく図録を買い求め手元にあります。乳白色に見せられた展覧会でした。それ以降は、日本では、本格的な回顧展は開催されていなかったようです。

今回の展覧会は、3回にわたって日経の美の美のコーナで解説があり、「一人の芸術家としての藤田嗣治の全貌を、日本初公開作品約20点を含めたこれらの作品を通して探ることで、伝説ではない、あらたな藤田像を見出そうとするものです。」という触込みもあり、大変期待していました。そんなこともあり、気合をいれ、珍しく音声ガイドまで借りて鑑賞しました。

  • 第一の感想は、乳白色とは違う、多様な表現に藤田はトライしているという点。

    墨の文化の日本人が何故黒を使ってはいけないのだと黒田清輝に反発して描いた《自画像》(1910)、渡仏しピカソに出会い影響を受けたという《キュビズム風静物》(1914)、ルソーに影響を受けたという(それにしては藤田らしく画面が真っ暗な)《パリ風景》(1918)、中米旅行に出て極彩色の絵を描いた時代。ロココ調の今は迎賓館に飾られているという《銀座コロンバン壁画 天使と女性》(1935)、泥臭い日本の風俗を描いた時代、ルネサンスを髣髴とさせる《優美神》(1946-48)。

    今回の展覧会の話題の5点の戦争画も、余りに画面が暗褐色なのでティントレットの戦争画のようですし、《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945)は、ルーブル美術館に掲げられている18世紀の大作のような画面構成が印象的です。その意味では、西洋絵画の伝統を身に着けた藤田というものを感じます。

  • 第二の感想は、「日本画に通じる乳白色と細い筆で描いた線」の作品に関するもの。

    《自画像》(1921)(ベルギー王立近代美術館):藤田がはじめて、乳白色の作品を出展したのは、1921年のサロン・ドートンヌ。3点を出品し大好評を得た。そのうちの1点。もう2点は、どんな作品なのか興味があります。
    《五人の裸婦》(1923)は、五感がテーマ。クリュニー美術館にある六枚のタペストリーにでも触発されたテーマだろうか?
    《タピスリーの裸婦》(1923)は、裸婦の肌のなめらかさ、猫の毛並みの様子。バックのカーテンのちょっとごわごわした感触を再現しようとした作品。モノとして絵画表現という時代に潮流にのった作品。
    《ライオンのいる構図》(1928):システィナ礼拝堂の《最後の審判》の影響を受けたという。
    ここでも、藤田は忠実に西洋絵画の伝統や流行にそった作品を残している。だからここまで、フランスで人気がでたのだろう。

  • 第三の感想は、藤田の私生活が、特に宗教的な作品に色濃く表れるということ。

    藤田は、初期から宗教画を描きはじめている。
    《生誕 於巴里》(1918)は、1917年にフェルナド・バレーと結婚をした影響ではないだろうか?西洋の女性と生活することにより、キリスト教そのものが生活の中に入ってきたのはないだろうか。例えば、クリスマス・イブをすこしでも理解できたからではないだろうか。

    《エレーヌ・フランクの肖像》(1924):肖像画を依頼にしにきた彼女は護身用にピストルを所持していたという。藤田はモデルを誘惑するという噂があったからという。そして、1924年からは、フェルナド・バレーと別居、ユキと住む。

    《三王礼拝》(1927)《十字架降下》(1927);金箔をはった作品。日本絵画と金箔という技術とキリスト教の主題。なぜか涙がでてきました。パリの社交界で明るく振舞うが、心の奥では宗教に救いを求めているのでは。翌年に《ライオンのいる構図》(1928)では、ライオンが檻に閉じ込められているが、なにか、宗教に求めるものがあったでは。

    1931年からは、マドレーヌと1933年に帰国。1936年にマドレーヌが急死。同年、堀内君代と結婚。1939年に渡仏するが、1940年にはすぐ帰国。戦争画を描き、敗戦後、非難され、1949渡米、1950年渡仏。

    《カフェにて》(1949-63):頬づえをついて座っているのはメランコリーの意味。藤田のメランコリーな気分を表しているのだろう。このバージョンでは、お店の名前にクレールと君代夫人の洗礼名が記されているので、1959年以降の作品になる。本作品には4つのバリエーションが知られており、1949年にニューヨークで描かれた作品は、パリ国立近代美術館に寄贈された。(1988年の東京パリ友好提携記念レオナール・フジタ展で展示されていた。)

    《アージュ・メカニック》(1958-59):フランスの産業を代表する飛行機や掃除機で遊ぶ子供たち。子供のいない夫妻が描く子供の絵。

    そして、最後に《キリスト降誕》(1960)、《磔刑》(1960)、《キリスト降架》(1959)。《礼拝》(1962-63)。ランスのノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂のフレスコ画。日本人であることをやめ、フランス人になり、子供もいない夫妻にとって、神への祈りのみが救いだったのだろうか。

    ほとんどすべての作品にコメントしたいくらいだが、ひとまずはここで。

    P.S.図録は、音声ガイドぐらいには、解説を書いてほしかったです。ちょっと物足りない。
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