岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

細雪が、「春雨」に…

2007-03-31 06:01:30 | Weblog
 ( 昨日の続きである。内容は綿雪から次第に細雪に変わっていったというところからだ…。)

 …ところが、「ふわふわと空中を漂うように降っていた雪」は次第に、小さくなり、霧雨やぬか雨に似た形状に変化してきた。
 まさにそれは、春雨を思い起こさせる「春の雪」だった。風はもとよりないに等しい。目に見えるか見えない程度の細かい、雨のように垂直に、幾分早めに降る雪である。これは「細雪」(ささめゆき)と呼んでもいいだろう。春の雪だ。
 暖冬だと騒がれているが、季節の推移にたがわず、降るべき時にちゃんと降ってくれる「細雪」に何だか感謝したい気持ちになった。
 人間の業が、暖冬の一因をなしていることは疑いようのない事実である。それにもめげず、自然は順当な自然気象を懸命に醸し出しているように思えたからである。

私はその細かい雪を、三十分ほどじっと眺めていた。そして、それはいつしか、静かな細い雨に変わっていったことに気づいた。そして、ふと「春が来ているなあ」と呟いた。

今日で、三月も終わりだ。
 飯田龍太の俳句に「いきいきと三月生まる雲の奥」というのがある。山本健吉はこの句の三月は月でなく「季節」であると指摘している。言い得て妙であり、私もそう思う。
 三月はいろいろな意味を持つ月(季節)である。気象的なものだけでない。
 「別れ」の、「旅立ち」の、「希望」の季節であり、受験に失敗した十五歳や十八歳の若者にとっては「悲しく、悔しく、涙する」季節でもある。

 三月は混沌とした季節であり、非常にメリハリの利いた月でもある。三月に入ると、日照時間が長くなり気温も高くなる。当然上昇気流も発生する。
 ところが上空には寒気が流れ込んでいる。だから、天気図に現われない小さな前線が一日に何回も通過して、その都度、雪しぐれを降らせる。
 真冬と早春がしのぎを削る。寒気の南下で気温は氷点下まで下がり、西高東低の等圧線がこみ合うと、風は台風なみに発達する。
 また、一晩で数十センチの積雪を見ることもある。そんな日の後に、明るい日ざしの春が、遅い朝から始まることがある。
 しかし、冬の装いをまったく捨てているわけではない。早朝の凍てつく放射冷却に始まり、青空は抜けるように高く、陽光は暑いほどだ。だが、時折雪しぐれが通り、路上にうっすらと綿雪を残す。
 そして、また次の日ざしと乾いた風が、瞬く間にそれを消してしまう。三寒四温に似ているこのような繰り返しが三月である。
 
だが、やはり「暖冬」であった。今年の三月にはその「メリハリ」がないのである。しかし、この細雪とそれから変わった細かい雨は、メリハリのない分だけ、逆に「春」を十分感じさせてくれたのだ。
 ひょっとすると、このメリハリのない三月がそのまま、四月にずれ込んでしまうのかも知れない。冬の名残りと、惰性だけの春となったらどうしようかと、幾分心配している。