岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

山野草、掘り採りをする人の言い分?

2007-03-28 07:30:21 | Weblog
 山の中で、よく掘り採りをしている人に会うことがある。そのタイプは大きく二つに分けられる。
 その一つは、趣味程度に、つまり昨日書いた好事家らしい人。
その一つは、「掘り採り」を生業(なりわい)として、それで生活している人である。格好・服装の様子、持っている道具類・装備の違いから外面的に両者はすぐ区別出来る。
 さらに、突っ込んで、その行動・動静から見ると、前者は「どこかおどおどしていて、落ち着かない。」「こちらが話す以上に多弁であることが多い。」「採らないで下さいとお願いするとまず、止めてすみませんと言う。」などの傾向を示す。

 後者はかなり異質だ。まったく反対だと言ってもいい。「横柄さをともなう平然さと落ち着き示す。」「まるでこちらを無視するかのように殆ど口をきかない。」「採らないで下さいとお願いすると、『お前は誰だ。何の権利があってそのようなことを言うのだ。昔からずっとこうして採ってきたのだ。誰からも採るなと言われたことはない。』」と言う。
 そして、言いながらも「掘り採り」は決して止めない。その作業は手慣れたせいもあるのだろうが、手際よくスピーデーですらある。まさに「プロフェショナル」なのである。

 彼らの言い分の中心には「昔から掘り採ってきた」という既得権の主張がある。しかし、「採取」してはいけないということを知らないわけではないのだ。
 だが「採取」して「山野草店」に持ち込んで、売ってもそのことは決して法律に抵触しないことは知っている。
 しかも、「採取」は現行犯逮捕が原則なので、お巡りさんが山の中にいるわけもないとなれば、生活の手段となることは容易であろう。
 「山野草店」からの「現金収入」は魅力である。もちろん、「山野草店」と個別契約をしているだろう。その方が「安定した現金収入」になるだろう。「掘り採り」屋と「山野草店」の関心はただ、「儲け・利潤・現金・収入」にしかない。山野草を育てている、または育っている「自然」にはないのである。

 自然は有限なのである。育てることもせず、造り出すこともしないで、ただ採り続けていては、いつかは枯渇する。それを絶滅という。そうなると、「掘り採り」屋も「山野草店」も存在不可能となることに気づいてもいいだろうに…。
 かつてゴールドラッシュと言われた時代の話しだが、金という地下資源の枯渇、つまり金を掘り尽くした結果、金が採れていた時の繁栄と隆盛は消え去り、人々は去り尽くし「ゴーストタウン」という廃墟になったという歴史的事実を思い返してみよう。

 この手の「掘り採り」屋は岩木山だけでなく、どこの山にもいる。
 私は岩木山に固執しているから、他の山のことはよく知らないが、本会会長の阿部東は「虫」屋なので、それを追ってどこへでも出かける。
 彼が言うには「白神山地」はもとより、近くでは「大鰐の奥山」や「梵珠山や中山山系」などで頻繁に出会うのだそうだ。
 縦横無尽に走る「林道」を伝い、どこへでも出かける。植林し、造林して山を育てる、管理するための「林道」が、山の生態系を壊すことにつながっている。
 それだけではない。それを使って林野庁が、人工林を伐採しているのならまだいいが、杉などは安くて商売にならないからと、ひっそりと残っている「天然林」をどんどん伐採しているのだ。青森県では特に、下北半島の「ブナ」がどんどんと伐られている。
 ここにも、「儲け・利潤・現金・収入」への関心しかない。

 「日本の天然林を救う全国連絡会議」がすすめている「国有林内の天然林を環境省に移管し保全する改革に関する請願書」署名の第一次締め切りが31日。まだの人は急いでほしい。