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10月11日(土)妻と二人で和歌山の実家へ帰る途中、滋賀県の近江八幡市で途中下車して、近江商人の街並みを散策して来ました。
新幹線で米原まで行き、JR東海道本線(琵琶湖線)に乗り換え、11時過ぎに近江八幡駅で下車。
先ずは腹ごしらえと言うことで、駅近くの「カネ吉山本」で近江牛のステーキランチを食べたあと、南北の大通りから西へ向かい池田町の洋風住宅に行く途中に見えてきたのが「八幡小学校」です。
とても小学校とは思えない見事な白亜の建物です。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、近江八幡の歴史を語るとき、なくてはならない建築家であり実業家ですが、この小学校も一粒社ヴォーリズ建築事務所の建築物だということです。
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「八幡小学校」を通り過ぎてすぐの角を右折し、池田町通りを北に進むと「池田町洋館街」です。
「池田町洋館街」は、ご覧のとおり煉瓦の塀が連なり、とてもノスタルジックです。
ヴォーリズが近江八幡で最初に設計した現存する3棟の大正時代築の西洋館で構成されています。
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「旧吉田悦蔵邸」
ヴォーリズが赴任した近江八幡商業高校の教え子で、その後近江兄弟社をヴォーリズとともに支えた吉田悦蔵氏の住居です。
登録有形文化財に指定されたアメリカン・ダッチ・コロニアル風の木造三階建て、大正2年築。
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「旧ウォーターハウス邸」
近江ミッション伝道事業に加わった、元早稲田大学の教師ウォーターハウス氏のために大正2年に建てられた住宅です。
「旧ウォーターハウス邸」の隣にはヴォーリズの自宅がありましたがヴォーリズ邸は解体され現存しません。
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「ダブルハウス」
大正10年築のこの建物は近江ミッションの米国人スタッフのための住宅で、コロニアル・スタイルの二世帯住宅です。
最初に入居したのはヴォーリズの両親と米国の建築技師で、その後も近江ミッションの人たちに受け継がれ、佐藤、諸川両家の住宅として現在も使われています。
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「池田町洋館街」から北へ少し歩き、右折して京街道門前通りを東に向かって歩きます。
「中村四郎兵衛邸」は、扇屋(伴家)に奉公していた四郎兵衛が、屋号の一字を譲り受け、「扇四呉服店」と称して現在の地に享保5年(1720年)に開店したことに始まります。
3代目が京都・大坂に出店するなど店を拡充し、5代目は初代八幡町の収入役として活躍しました。
9代目となる今日も創業以来の[呉服]を商う(株)扇四呉服店として地域と共に歩んでいます。
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「中村四郎兵衛邸」から更に東へ歩くと、その中村四郎兵衛が奉公していた「旧伴家住宅」です。
伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といいます。
寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。
5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。
学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。
以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年に終焉しました。
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通りをはさんで前にある「歴史民俗資料館」は、森五郎兵衞の控宅で、近江商人の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そのほか多くの民俗資料を展示公開しています。
裏庭には、民具、農具などが展示され、水郷地帯の農村の生活を知ることができます。
初代五郎兵衞は、伴傳兵衞家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商いました。
やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど活躍しました。
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新町周辺は、古い町並みがよく保存されており、国の重要伝統的建造物保存地域となっています。
江戸時代末期から明治にかけて建築された商家が整然と残る町並みは、近江商人の故郷として、その保存運動が展開されています。
八幡商人は、近江商人の中でも最も早い時期に活動し、海外進出を果たしたのもこの地の出身者でした。
江戸出店も最も早く、西川甚五郎、西川庄六、伴伝兵衛、森五郎兵衞等の八幡商人が活躍しました。
新町界隈には、彼らの住居がまとまってよく残っており、景観だけではなく、史跡としても重要なものです。
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