たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

気の抜けない毎日・・・

2016年03月15日 22時04分53秒 | 日記
 なんとか無事に一日が終わろうとしています。出勤した時課長に昨日休んだ詫びを入れました。前職が大変で神経性胃炎になったのを引きずっており今また緊張しているので胃の痛みが続いていること、そして土曜日に責任者の女性から怒られた、その怒られ方が残っていることを話しました。どこまで本当にあてにしていいかわかりませんが、何かあれば言ってください、とのことでした。一カ月あまりどうにかこうにかやってきて信頼はもうしてもらっていると思うので、またあまり大変なことになれば相談しようかな。

 今日も気の抜けない一日でした。詳細を書くことはできませんが、本当にどんな人がどんなことで怒りはじめるかわからない窓口。怒り始めてもかんたんにお帰りくださいとは言えないことをわかっているので、ここぞとばかりに怒りをぶつけられ、ストレスを吐き出したらおとなしくなったり、ずっと怒り続けている人もいたり、本当にわかりません。誠意を尽くしてはいますが、全部に適応することなんて到底無理です。あれやこれやで気がついたら夕方の5時になっていましたが、理不尽にむやみに怒るのではなく、怒るのも無理はないよな、という場面もたくさんありでお互いにイライラが募りつらい一日でした。責任者は休みだったので中から怒られることはなかったのだけが救いです。11時ぐらいまでは落ち着いた状況だったので仲間に教えてもらいながら新しいことにトライしました。マニュアルをみていても頭に入らない、数をこなしてなれていくしかないこと。明日はどうなんでしょうか。きっとまた中で怒られどおしになるでしょうね。気持ちが萎縮してしまい、私ならできるはずのこともできなくなってしまう。それが一番いやです。

 こういう人が上に立ってはいけない、というタイプの方が責任者として上にきてしまったみたいです。気分のアップダウンが激しく、ものすごく怒っていたかと思うと、時々妙になれなれしい時があり波長が全くわかりません。周囲を振り回す、偏りのある方なんだろうと思います。上にきてしまうと周囲が本当に大変というタイプの方です。聞き流すしかないですが私にはなかなかむずかしいでしょう。私が知らないだけで他の方々も一日に一回はなにかしら怒られているみたいです。誰かがほめられている場面をそういえばみたことがありません。何かしら言わないと気がすまないんでしょうね。昨日ある場所でこの辛さを吐露したところ、あんまりいい評判はないようでした。

 毎日毎日が勉強。ずっと会社にいるだけだったら知らなかったことの連続です。このまま6月末でやり抜けたら、私はすごく成長しているのかもしれません。この経験は無駄にはならないだらろうと思います。ただ時給が負荷に見合わないのと責任者からいやな怒られ方をするのが辛いです。明日も気の抜けない一日になりそうです。無事に終わるといいですがどうでしょうか。一日一日でやれるところまでやるしかありません。辛かったら辞めればいいだけのこと。実際には辞めることができなくてもそう思って一日一日をやり過ごしていきます。やれるところまで・・・。


今日はさぼり・・・

2016年03月14日 10時42分20秒 | 日記
 昨日の記事にやさしいコメントをいただきました。ありがとうございます。友人・知人以外にどんな人が読んでくださっているのかな、と思いながら書いています。新着一覧に表示されているんですね。人を怒ることで嘘っぱちの優越感にひたる人がたくさんいる。人は私自身も含めてつい自分と他の人を比較し、優劣をつけたがる。どこまでも愚かで哀しき生き物なんだとあらためて思います。

 給料が減りますが、今日は具合が悪いということにして休んでいます。契約書の開始時間は8時30分ですが、8時25分までに執務室に入るように言われているので8時20分に電話を入れました。電話するのが遅かったと言ってまた怒られるのも悔しいですらか・・・。そしたら電話に出たのは課長の男性でした。この方は定年間近の温和な物腰の方です。「具合が悪いので・・・」と言ったら具体的にどこが悪いのか気になる風だったので「胃が痛いのでお医者さんにいったりしたいです」と言いました。胃の痛みがとまらず、所定回数以上に胃薬を飲んでいて薬が早めになくなってしまっているのは事実なので嘘はついていないです。今日出勤して夕方かかりつけ医に行こうと思ったら、残業できませんと朝から言わなければなりません。そんなのうんざりで、うざくってたまりません。

 一月からすにで二人フェイドアウトしているようです。一人は研修に一日出ただけでフェイドアウト。もう一人は二日出勤しただけで、具合が悪いとしてずっと休みを引きのばした挙げ句にフェイドアウト。この二人目の人の交替として私は繰り上げ採用となったようです。7人の枠の中で、私がまた一カ月ちょっとでフェイドアウトとなったら採用元から何か問題があるんじゃないかと指摘されて困るでしょうね、たぶん。前例があるので気にしていると思います。

 明日はとりあえず行くつもりです。しつこく怒ってくる責任者の女性は明日はたしかいないはずです。いい人の課長の男性に土曜日のしこりが深く残っていることを話せるような環境であればいいのですが、どうでしょうか。結局は人間同士の営みです。しこりをひきずって不満をふつふつとさせながら続けることは無理でしょう。しかも土曜日の出来事が最初ではなく、私の中でしこりは積み重なっています。ひとつひとつは小さいように見えることが積み重なって大きく膨らみ、ある時爆発することになります。現在の契約は6月末までだから、生活もあるしせめてそこまで全うできるといいのかな。そしたら経歴として書類に書けるでしょう。この一カ月私はよくやってきているはずです。こんな大変なこと、誰もがやれるわけではありません。前職の大会社の一般職のおばちゃんたちにはとうてい無理でしょう。それぐらいの自負はもっていいはず。多くの場合は怒りをもっていても理解いただけるように言葉を尽くして説明し、最後は納得していただいて帰ってもらうことの方が多いです。少数の、なんだか凝り固まってしまっているような人たちがここぞと怒りをぶちまけていきます。そんな人に私は何度もあたってしまっています。無論私だけではないです。こんなに大変だし、休みも変則的なので私以外の人たちもたぶんすごく疲れています。まだ先は長いのにこんなのもたないんじゃないでしょうか。時給がもう少し高くないとほんとにあいません。やってられないです。

 

第1章_性別職務分離の状況⑤女性は一般職に適している

2016年03月13日 12時53分21秒 | 卒業論文
 労働市場においては、個々の意欲・能力・適性とは関係なく、「性」による振り分けが最も安定性を保ち、経済的であることを前項で見た。事務部門においては、総合職は「男の仕事」、一般職は高卒や短大卒の「女の仕事」という慣行が企業の中に暗黙のうちにある。そうした慣行が自然に受け入れられてきた背景には、男とはこういうもの、女とはこういうものというステレオタイプ的な考えに基づいた「男性に適した仕事」「女性に適した仕事」という適正論があると考えられる。適正論は、直接的には「男の仕事」「女の仕事」という「水平的職務分離」に結びつくが、それはスムーズに「垂直的職務分離」に転化されて女性の下位職務への緊縛を間接的に正当化している。

 ここでは、均等法改正を前にした1996年時点における総務庁行政監察局の調査から「女性の特質・感性」についての企業の考え方を見ていきたい。均等法においては、男女の均等な機会及び待遇を確保するために事業主が講ずるべき措置のうち、募集・採用及び配置・昇進に係る男女の均等な取扱いについては事業主の努力義務とされるにとどまったため、女性一般に対する先入観、固定的観念等に基づいた合理性のない理由により、補助的・定型的業務への配置に固定化し、男女平等の理念にそぐわない結果をもたらしている状況がみられる。1)

 総務庁では、1996(平成8)年4月から6月にかけて均等法の定着状況、労働基準による募集・採用及び配置・昇進への影響、均等法の実効性を確保するための措置の実施状況、職業生活と家庭生活との両立支援対策の実施状況等を調査し、その結果をとりまとめ、1996(平成8)年12月13日に労働省(当事)に対し勧告した。この報告の中で、企業における「女性のみ」又は「女性優遇」の取扱いに関しては、以下の通りである。
調査した企業239社における職務(人事・総務・経理、企画・調査・広報等7種類)別の配置状況を1995(平成7)年度の女子雇用調査の結果からみると、表1-11のとおり、各職務とも「いずれの職場にも男女とも配置」している企業が多いが、「営業」、「研究・開発」、「生産」及び「販売・サービス」で「男性のみ配置の職場がある」とする企業の割合が比較的高い。この「男性のみ配置の職場がある」とする企業についてその理由をみると、表1-12のとおり、1995(平成7)年度では、「外部との折衝が多い」(28.7%)、「深夜には及ばないが時間外労働が多い」(27.7%)、「女性の適任者がいない」(26.3%)及び「体力・筋力を必要とする業務がある」(23.4%)が比較的多い。

 また、企業における女性の配置の基本的な考え方について、表1-13のとおり、1995(平成7)年度では、「能力や適性に応じて男性と同様の職務に配置」する企業が47.1%、「女性の特質・感性を生かせる職務に配置」とする企業が44.6%となっている。また、「男性のみを配置している職種または部署がある」企業の中には、表1-14のとおり、①体力を要する業務であり、女性には不向きであること、②出張や対外折衝があり営業には女性は適さないこと、③基幹的業務には女性を配置できないこと等、女性一般に対する固定的な先入観に基づいた合理性のない理由により男性のみを配置している例がみられる。

 新規学卒者に対する募集について「女性のみ募集の職種がある」企業の割合は、表1-15のとおり、新規学卒者に対する募集を行った企業(177社)の29.9%(53社)となっており、また、「女性のみ募集」の対象となっている職種としては、一般事務職が35.2%(総合職と区分されるいわゆる「一般職」と合わせて48.1%)、顧客、乗客等に対するサービス職が20.4%となっている。これらの職種別に女性のみの募集を行っている理由をみると、表1-16のとおり、「女性の特性・感性を活用する」(23.9%)、「顧客、取引先等が女性を好む」(16.9%)及び「補助的・定型的な業務である」(15.5%)といった合理性のないものが多い。

 また、「女子のみの募集の職種・コースあり」とする企業について、その理由を同様に比較すると、表1-17のとおり、1995(平成7)年度と1992(平成4年)度とではほとんど変わっておらず、「女性の方がソフトな対応ができ、顧客が好む、又は女性の感性を生かすことができる」(7年度52.0%)及び「補助的・定型的業務である」(同44.2%)を挙げる企業が多い。
このことは、労働省の「企業における女子のみを対象とした取扱いについての調査」の結果においても同様の傾向となっており、女子のみを、又は女子を優先して募集・採用している理由をみると、表1-18のとおり、「補助的・定型的業務である」及び「女子の方がソフトな対応ができ顧客が好む、又は女子の感性をいかせる」とする企業が圧倒的に多い。すなわち、女子のみを募集・採用する場合は、「一般事務」、「パート等正社員以外」及び「高卒事務職・販売職」では「補助的・定型的業務である」ことを理由とするものの割合が63.5%ないし77.2%と多い一方、「電話交換手」及び「接客(受付を含む)」では「女子の方がソフトな対応ができ顧客が好む、または女性の感性をいかせる」ことを理由とするものが9割を超えている。また、女子を優先して募集・採用する場合は、「パート等正社員以外」では「補助的・定型的業務である」ことを理由とするものが、「営業・販売職」では「女子のほうがソフトな対応ができ顧客が好む、又は女子の感性をいかせる」ことを理由とするものが特に多く、その他の職種・コースでも、これら2つの理由を挙げる企業が多い傾向にある。

 以上の報告から、経営者や男たちが考える「女性の特質・感性」とは、①補助的または定型的業務に適していること、②男性の顧客の気を惹き、女性の顧客を安心させるようなやさしくソフトな接遇ができること、であると思われる。このような「女性の特質・感性」に関する考え方が企業社会の中でまとわりつき、性別職務分離となって現れている状況の例として熊沢の1999年のききとり調査の一例を紹介したい。

男性行員20名のすべてを総合職、女性行員13名すべてを一般職に配置している信託銀行の支店長は、次のように語っているー一流大学卒の総合職志望の女性は、だいたい専門職志望で、「理詰めでこつこつ」勉強して、年金、証券、不動産、遺産などの一分野に強くなることがある。しかし、「大所高所」の視点に立つ「飛躍的な発想」は苦手だ。それになりより、「当行の中心業務である顧客との立ち入った相談にもとづく財産信託」をさせると成果が乏しい。「がんばる気」と、相談しやすさとか「客と同じ視点に立つ」態度、「なんというか社会性?」がいまひとつなのだ。そこでそうした若干の女性総合職は本店の専門部に集中することになり、当支店のような前線では、頼りになるのは一般大学卒、短大卒の、規則に対する順応性が高く、「あえていえば定型的作業に適した」一般職の女性ということになる。彼女らは「上司からの期待役割にそって働くという役割限定意識がつよい・・・」
 
 この信託銀行の資格基準表を覗いてみると、総合職では、全11ランクのうち「定型的な事務」が職務に含まれるのは、最低二つのランクに限られている。その第二のランクには、早くも「非定型的事務」のほか、「やや幅広い専門的知識と実務知識」、そして「やや広範囲の事項の分析、調査、企画、適切な対外折衝」の要請があらわれる。一般職についても「特定の渉外業務」が第2ランク以上の職務に含まれる。しかし一般職では「定型的事務」が、最高位第8ランクまでつきまとっている。それにベテランが新参者を「指導」することは求められていても、一般職業務のすべては「上司の包括的な指示のもとに」ある。あらためていえば、実態として総合職は男性、一般職は女性であった。

 以上から、企業社会の内なる女性は今でも総じて幅広い知識のいる企画や開発、「度胸」と決断のいる大きな取引、危機管理的な対応、予算必達の営業、そして個人的感情にとらわれてはならぬ人的管理などには「向かない」とみなされ、これらの「総合職的」業務から排除されているということができるのである。2) 事務部門の中でも、比較的簡単な様々の仕事を適宜わりあてられる「一般職」=女性は、「女性の特質・感性を生かした」職務配置の結果なのである。経営の論理を体現する男性は、男性よりも女性は誰かがやらなければならない単純で雑務的な「おもしろくない仕事」をさほど苦にせず、コツコツと従順にこなしてくれる労働者とみなしていることがわかる。「かなり高度の判断力を要する」基幹的な業務には不向きであり、定型的業務に適した女性が就く一般職いわゆる「OL」に期待されているのは、基幹的な作業を担う男性の上司や同僚を補助し、身の回りの世話をする家庭における「女房的」役割である。

 もう一点、性による分業が企業の中で受け入れられてきた背景として忘れてならないのは、女性が主に家庭責任を担っているという点である。熊沢は、職場外の生活のニーズをあまり気にせずに残業や転勤のできるような〈生活態度としての能力〉の要請に応えられる「能力」を、日本的能力主義の特徴と指摘している。将来またはいま現在「家庭責任」を負う女たちには、とくにこうした「能力」を求められる総合職や管理職に就くことはふさわしくないとされるわけである。 3)先の女子雇用調査の結果で、男性のみ配置の理由として、時間外労働が多いが27.7%、出張・全国転勤があるが14.0%を占めていた(表1-11)が、男性が深夜に及ぶ残業をし、出張・転勤も厭わず働くことができる「能力」を有するのに対して、家事・育児の責任を担う女性には会社で働ける時間に限界があり、その量的限界が女性は責任の重い職務に就けない理由とされている場合がきわめて多い。建前に掲げられるのは能力差であるが、この「能力」とは、どれほど家庭を顧みず長時間働けるかなのである。男性の長時間労働が可能になるのは、仕事以外の生活ニーズを全て女性が担っているからに他ならない。女性が「家庭責任」を負うことを理由に下位職務に留め置くことは、男性を中心とした日本型企業社会自身がつくりだしたものなのである。性を基準とした雇用管理の違いは、均等法施行後10年を経ても女性の管理職が10%に満たない(1996年時点)という事実として表れている。次に、日本においては女性の昇進・昇格はまだまだおくれている様子を概観したいと思う。

1)1997年に改正された男女雇用機会均等法の第5条は、事業主は募集・採用について、女性に対して男性と均等な機会を与えなければならないと定め、募集・採用に関する女性差別を禁止した。この改正によって、事業主は法および指針に違反する場合には、直ちに是正を求められることになった。具体的には、13条の紛争解決の援助及び25条の行政指導(厚生労働大臣の助言、指導、勧告)の対象となり、厚生労働大臣の勧告に従わない場合は、26条により企業名公表の制裁を受けることになる。また、5条に違反して募集・採用に関する女性差別が行われた場合、その行為は民事上も違法・無効となり、差別された女性は、この規程を直接の根拠として裁判所に提訴することができる。(『2002年版、働く女性と労働法』32頁、東京都産業労働局労働部労働環境課)
2)熊沢誠『女性労働と企業社会』93-95頁、岩波新書、2000年。
3)熊沢、前掲書、75頁。

もうがんばれそうにありません

2016年03月13日 12時37分17秒 | 日記
 明日から五日間フル出勤になっていますが行かないつもりです。行かなければそれだけ収入は減り、また持ち出しが増えることになりますが精神的に行けそうにありません。昨日まで連日書き続っているように何重にも怒りとストレスのはけ口になっています。その上に法的な拘束を受けるので窮屈で仕方ありません。前職は苦しくても派遣元移籍という経緯もあり時給が平均値よりはよかったからがんばってしまいました。今はだいだい半分ぐらいです。こんなに安いうえに怒りとストレスが幾重にも重なった状態ではやってられません。若い人がむずかしいことはほとんどありませんが、そうじゃやない色々な人たちはかなり大変ですです。どんな一言がきっかけで怒りのはけ口となってしまうかわかりません。その全部にうまく適応することを要求されても私には無理です。その要求に答えられる人をどうぞ替わりにさがしてくださいって感じです。

 人はよくがんばれと言いますが、私の中で無理をしてがんばり続けることだけが正解だとは思えなくなっています。前職で無理に無理を重ね、己に鞭を打ってがんばり続けました。その結果が使い捨て。そんなの酷いじゃないかと声をあげたら弁護士が登場して、10年以上の実績を否定され人としての尊厳を傷つけられました。ようやく社会へ戻る入口が想定外にやってきたのでがんばってみました。収入が途絶えたまま社会から孤立し続けるのは辛くって仕方なかったから他に行くところもないので、がんばってみました。誠実に一生懸命に務めを果たそうとしました。でも結局空回り。今までの実績と人格を全部否定されるような叱責を受けてまた傷つくことになりました。この仕事が辛かったら他でもやっていけないのかもしれません。結局私はどこでも使い者にならないダメ人間なんだと自分を否定するばかりで、またやれるんだという自信を回復することができません。作業自体は難しいことはありません。ただまとめてこういう類のものを処理することに慣れておらず勝手もわかりません。私より一カ月早くスタートしている人たちでおのずとなんとなく役割分担がもう決まっている感じで、人がわさわさしている時私は何をしていいのかわからないし、やり方に統一感はないので人によって言ってくることが違います。指示も場当たり的。こういう声があった、こういうことで怒られたからこうしていきましょうみたいな。その怒られるきっかけが私であることが続いています。人は信じられないぐらいにありとあらゆることを言ってきます。社会そのものに対して日頃から怒りとストレスをため込んでいる感のある人たちがちょっとしたひと言がきっかけでものすごい剣幕で怒りをぶちまけたりします。ありとあらゆる人がやってくる窓口。全部の言うことをきいて、まともにそつなく対応するなんて無理なんです。できる人もいるのかもしれませんが、今までそんな仕事やった事のない者が今までの経験値の中から精一杯やってはみましたができませんでした。それをしつこく叱責されました。私にはもう無理だと思います。安い時給で長時間労働して疲れ果てて何もできず、余裕がありません。弟に話せばまたバカたれ、辛抱のないダメ人間だとひどく叱責されるでしょう。結局私の居場所はどこにもなくまた社会から孤立して行きます。私はこれからどこでどう生きていけばいいのかわかりません。人はみんな一人でこの世に誕生して、最後は一人で旅立っていかなければなりません。私の時間があと何年あるのかわかりませんが、限りある人生の時間は私はどう生きていけばいいのでしょうか。地を這うような想いでさがしているつもりですが答えは見つかりません。生活できなければ気持ちはあってもボランティアはやれません。歯痛は結局また大きな虫歯ができていて炎症を起こしていたことが原因でした。余裕なく仕事をするとこういうことになります。自己嫌悪。自己肯定感を取り戻すことができない辛い日々が続いていきます。
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いやな一日でした

2016年03月12日 22時53分07秒 | 日記
 今日も怒られどおしのいやな一日でした。これっぽちも仕事が楽しいと思えるようになりません。なんでしょうね。毎日毎日外からも中でも怒られどおし、謝りどおし。一昨日は軽度のアルツハイマー型認知症と思われるおばあちゃまと対面する場面がありました。最初話されている内容が理解できず、気がついたら内容を確認するために何度も同じことを繰り返して言ってしまっていました。そしたら「あなたは話をわからない人だ」と怒られました。私が対応に時間を喰ってしまったことで責任者からは、さっさと要点だけ確認して別の窓口にいってもららようにしなさいと怒られました。今日同じような案内の仕方をしたら、何度目かに間の悪いことにストレスをため込んでいるらしきおじさんにあたってしまいました。私の声かけの一言がオジサンの怒りのつぼにはまってしまったみたいで、ここぞとばかりにものすごい剣幕で怒り始めました。なんか世の中やっぱりおかしくてストレスをため込んでいる人が多いんでしょうか。ここなら吐き出しても平気だっていう感じで怒りをぶちまける人に先々週あたりもあたってしまったような気がします。ストレスのはけ口になっています。いちだんとなりやすい窓口です。私は間の悪いことになんか特にそうなりやすいんでしょうかね。今日のオジサンの怒り。私では対応しきれないので責任者が対応しましたが、その直後繰り返しものすごい言い方をされました。私の中では、これまで働いてきた実績と人格を全部否定されたと感じてしまうパワハラレベルの怒られ方でした。他の人ならそこまで感じないのかもしれませんが、気にしないようにと努力できるレベルなのかもしれませんが、私はそう感じてしまいました。責任者に何がいけなかったと思うかとたずねられました。私にはなにがいけなかったのかよくわかりませんでした。責任者が言うには私の声かけはオジサンを否定してしまったことになるそうです。だって一昨日まで確認することになっていたことを言っただけじゃん、それでやってきていることじゃんって内心思いました。口には出しませんでした。接客業だから、色んな人がくるから全部に適応できないと・・・って言われたけれど、こんな安い時給で完璧を求められても困るし、そもそも寄せ集めが十分な打ち合わせと指導もないまま付け焼刃でやっているだけ。そんなこと承知の上でやっているんじゃないんですかって感じです。求人票のどこにもそんなこと書いてなかったし、そんな経験求むとも書いてありませんでした。まあ面接の時にきかれた内容でそんな感じはしたので大変だろうなとは思いました。だから不採用通知が届いた時は少しほっとしたようなところもありました。面接の時に大変だろうなと感じたことはそのとおりだったいうことです。今までも色々と働いてきただろうから、それで来てもらっているはずだとか言われました。私が派遣で初日からいきなり苦情電話をとらされた経験はありますと言ったら、それで苦情対応できるならしてください、できないなら苦情電話の経験あるとか言わないでくださいって言われました。そんな言い方ってなに・・・。私が派遣で何の説明もなくいきなり苦情電話の対応をしなければならなかった経験を持つのは事実です。デパートでマネキンやったことがあるのも事実です。それらを否定されるような言い方は耐えがたいものがあります。なんか他にもいろいろとしつこく言われたような気がしますが忘れました。思い出したくありません。ただなんていやな言い方をするんだろっていういやーな気持ちと自分を否定された悔しさだけが深く残りました。完璧を求められるんだったら私はその要求にこたえられるに足る者ではないのでこれ以上やれないと思いました。なんだか悔しくってたまらず涙がにじみました。別の窓口の対応をするよう指示されたので対応しました。涙をにじませながら対応していました。別の窓口を訪れた若い男性にそれはたぶん伝わりました。なにか質問したかったけれどきけないふうでした。ごめんなさい。

 これ午前中のことだったので午後はもうとっと帰りたいと思いました。月曜日はもう来たくないと思いました。そんなわけにもいかずお昼を食べた後午後もがんばりました。誠実に一生懸命にやったつもりでしたが、最後の最後にまた否定的な言葉。一カ月早くスタートしている人たちはなんどもやっているけれど私はやったことがないちょっとしたこと。業務が終わり、こういうふうになっているんだとあらためて納得していたら、「たんぽぽさんがそうなっていなくてもやりやすいんだったらいいけど・・・」みないな。なんだよそれ、余計なひとこと言うなよって感じです。私嫌われているんでしょうか。外からも中でも怒られ通しの毎日。小姑みたいな人もいてそれぞれにむずかしく面倒くさいです。作業自体が私にはすごくつまらない。メールを書くことが全くない。文章書けないし、普通にパソコンを使うこと自体がないのですごくつまらない。なにをモチベーションにして私この仕事を続けられるんでしょうか。生活のためというには安すぎます。クソみたいな会社と弱い者いじめにかけては腕利きの弁護士に人としての尊厳を傷つけられた私が普通に社会に戻っていくことはやはり厳しいのかもしれません。これがが辛かったらどこも無理だともいう人もいますが、現にフェイドアウトする人がいたから私が繰り上げ採用となったわけで無理なものは無理だと思うのは私ばかりではありません。なんか合わない仕事です。他に行くところもないし、私これからどこでどうやって生きていけばいいのかやっぱりわかりません。想いは色々と尽きることなくあれど自分にごはんを食べさせる手立てはなく、結局わたしの居場所はどこにもないんだと思います。実家に戻れば弟に馬鹿にしたように怒られ続けました。なんか自分を否定されるの耐えがたいです。おもいっきり否定され続けたから耐えがたいです。なんか金曜日の感覚ですが土曜日ですか。変な感じです。明日一日の休みでまた行くのか?もう行けないかも。そう思って出勤簿に押すシャチハタを持って帰ってきました。無理に無理を重ねて続けるのが正解とはかぎりません。それはクソみたいな会社で働き続けてしまった経験からよくわかったじゃないですか。これからどこでどう生きていけばいいんでしょうね。とにかく疲れました。明日はあっという間の一日になるでしょう。その後どうしましょうかね。どうしたらいんでしょうかね。疲れしまってなんにもできないんじゃ、生きる甲斐がないです。幸せじゃないです。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 21 時間21 時間前

泣いてばかりいないで顔をあげろなどと言う者の言葉を信用してはならない。人は、自ら歩く道を舌で舐めるような辛酸のなかに長年探しているものを見出すことがある。悲しみは、情愛の泉である。そればかりか、叡知の門でもある。人生には、悲しみを通じてしか知り得ない幾つかの重大なことがらがある。


噛みしめたいことば

2016年03月11日 21時47分02秒 | 日記
若松英輔 ‏@yomutokaku · 18時間前

1923年9月1日に関東大震災が起こる。その翌月に柳宗悦が書いた「死とその悲みに就て」にはこう述べられている。「死にし人々にとっては、残る人々から贈られる涙が、どんなにか嬉しいであろう。果敢ない存在の記憶は只それ等の人々の心によって守られている」。今もふたたび噛みしめてみたい。








第1章性別職務分離の状況_④労働市場の性的な職種分離(2)

2016年03月11日 12時18分09秒 | 卒業論文
 現代日本の企業社会においては性こそが量的にも質的にもはるかに他の基準にまさる安定的な職務分離の基準とみなされ、その基準が執拗に生き続けているのである。人間がもつ属性の中で、なぜ性別が突出して企業において意識されるのか。その理由を、熊沢は産業社会における労働力の需要と管理のニーズが果たす役割を出発点とする、分業と配置に関する経営の論理から説明している。少し引用が長くなるが見てみよう。

 熊沢は先ず、現代の産業社会にはりめぐらされている、分業のネットワークを次のように極めて大まかに分類している。

 Ⅰシステムを企画、設計、管理する職務、Ⅱシステムの作り出す商品の販売、またはシステム稼動に必要な物財の確保をめぐって取引先との契約を成立させる職務、そして、Ⅲシステムの高速の稼動が可能なように作業を加える職務の組合せというかたちであらわれる。このⅢは、中分類、小分類とより細かく分けられる。たとえば、Ⅲ-1自動的なシステム、巨大装置、ロボット、コンピュータなどの制御、監視、保全にあたる仕事と、Ⅲ-2それら中核設備の前後と周辺に不可欠とされる広義の流れ作業。さらにⅢ-2は、①工場の組立、検査、包装、②成型機など単能機械やVDT 5)など事務機械の操作、③顧客が「流れ」として絶え間なくやってくる職場での販売・受付・窓口・接遇労働、そして④しばしば他の職務に付加されるけれども、ときには独立の職務ともされている多様な雑役。

 これらの職務群の構成比率は、ⅠよりはⅡ、ⅡよりはⅢ、ⅢのなかではⅢ1よりⅢ2のほうが多い。これらの職務群の間には、指示する仕事か指示される仕事か、仕事の進め方について裁量権があるかないか、仕事はむすかしいかやさしいか、仕事に必要な知識や経験はどの程度かなど、総じて仕事の内容に結びついた上下の序列がある。一般論として、グレードの順番はⅠ、Ⅱ、Ⅲ1、Ⅲ2である。いわゆる責任の範囲もこれに従う。以上のことは下位(Ⅲ2)の職務、定型的労働においても、システムを間違いなく稼動させるため、「ミスをしてはならない」責任がきびしく問われること、そしてまた、こうした仕事にもそれをうまくこなす「コツ」というものが必ずあるということと矛盾するものではない。しかし、下位(Ⅲ2)の仕事はふつう「おもしろくない」営みであり、構成比率をあわせ考えると、この世の「おもしろい仕事」と「おもしろくない仕事」の配分構造はピラミッドに近い。

 一定の生産力の要請にもとづく自動的なシステムの導入が分業・労働組織の大枠を決定するとすれば、次に経営の論理は、それぞれの職務群に特化された「専担者」を求める。それぞれの従業員層を〈上位ステイタス〉、あるいは〈下位ステイタス〉の仕事に専念させるほうが効率的だからである。とくに〈上位ステイタス〉の男たちは、自らの「高度な」ビジネスへの専念が、「雑用」のために妨げられることを極端に嫌うものだ。労働市場において、この上位職務の専担者の供給は希望者が多いためにわりあい容易である。では、数的にも多い「おもしろくない仕事」の専担者をどこに求めればいいのか。

 多くの単純労働を含むグループⅢの仕事を不満なく、あるいは生産と分業の秩序を乱すほどに高まる不満はなく引き受けてくれる、このような経営のニーズを満たすような下位職務専担者として労働市場に登場する人びとの「安定条件」として次の2点が挙げられる。

(1)長年の貧困や失業の体験、あるいは高度な仕事が全く無経験であるなどによって、就業さえできれば仕事の内容はさして重要ではないと考えている、または考えさせられている時

(2)下位職務の遂行がただ経過的なものと意識されている時

 この「安定条件」との適合性を考慮して上位職務と下位職務の専担者の選別基準は定められる。その基準として用いられてきたのが学歴、勤続、人種、国籍そして性である。これら諸基準のそれぞれをどの程度に重視するかは、適合性の考慮ゆえに、国別・時代別に多様であり、また変化する。ある時代には一つの基準がグループⅢに属する仕事の専担者を決めるにふさわしかったとしても、時代が変われば、その基準が「安定条件」を満たさない局面が到来する。そればかりか、特定の基準によって下位職務の専担者に位置づけされる人の比率は、おおまかにせよ下位職務そのものの数的比率にも対応する必要があるだろうが、この量的整合性も時代と共に不安定になる可能性がある。たとえば学歴を考えてみると、近年の量的にみて膨張する学歴水準と、ピラミッド型に近い職務構造との間に著しいギャップがあり、質的にみても、高学歴者にグループⅢの仕事を継続的に担当させることは、「安定条件」と整合性をもたない。勤続という基準も、男女ともに長勤続者が多くなった一方で、上位職務の絶対数を増やす組織規模の拡張が停滞している今では、やはり量的にも質的にも「安定条件」との整合性は危うい。

 このように見てくると、性による基準が時代の変化を受けず、質的にも量的にも最も安定的な職務分離の基準とみなされるのである。「仕事が同じなのに」性によって処遇を格差づけることは建前上許されないが、ここで問題なのは「仕事そのものをどの基準で配分するか」である。そして経営者と男たちの好んでみなすところ、それに関する限り女性はふつう、低学歴で短勤続の人一般よりも安定的に下位職務専担のニーズを満たす。6) 女性を下位職域に留め置くことは、日本型企業社会にとって「経済的」なのである。日本経済は女性を使うことで成り立ってきたとの声さえある。朝日新聞の記者竹信三恵子は男女雇用機会均等法施行時、経済界から反対意見が続出した実態を次のように説明している。

 女性には家庭にいてほしい。しかし、これだけでは正解ではない。同時に、外で働いてもらわなければ困るのである。ただし、男性と変わらない質の仕事をより安い賃金でこなし、好況時には登場するが不況の際には黙って退場してくれる限りは。さらに、働く合間に子どもを育てて労働力の再生産もしてくれなければならない。雇用機会均等法施行当時の財・官界のアレルギーは、こうした便利な「資源」を失うことへの不安だったのではないか。

 「男女平等」は、近代社会では、ごく自然の「建前」である。それを法制化することに、近代の高等教育を受けた知識人であるはずの財・官界の人々が、「女性が職場に進出すれば日本経済はだめになる」など強い調子の反対意見を、しかも公然と述べるというのは、おそらく単に「頭が古く」「差別意識が強い」からだけではない。女性差別や男女分業は「経済的」であり、「発展の土台」である、といった世界観があってこそ、彼らは恥ずかしいと感じることもなく、近代社会の「建前」に正面切って反論することができたのではなかろうか。この世界観は、「女の時代」の80年代にも、「少産化」で母性保護が突然浮上し始めた90年代にも、世代を超えて引き継がれていることを私は知った。

 メーカーに勤める団塊世代の大卒男性社員は、「女性差別が日本経済を維持している」と公言した。「単純な事務作業を引き受け、夫の長時間労働を我慢しながら、老人介護を無料でこなして税金の支出を抑える女性がいなければ、日本経済はつぶれる」と言うのである。若手社員も必ずしも例外ではなかった。ある20代の既婚男性社員は、「仕事以外のすべてのことを妻が引き受けてくれるから、僕は仕事ができる。男女分業や女性差別が悪いと言われようと、この仕組みに頼らざるを得ない」と言い切った。男女分業待望論は、男らしさ、女らしさを求める過去へのノスタルジアだけからくるのではない。「経済効率化のための必要悪」として、企業社会にしっかりと息づいているのである。 7) 

 ある日本のビジネスウーマンはこう指摘する「働く女性は男性よりずっと忙しい。男性は会社にいくだけでよい。それ以外の一切は彼の妻が面倒をみてくれる。働く女性は、仕事も金銭も含め、生活の一切をやりくりする。家庭の主婦は、子どもを育て、家事を切り盛りし、年老いた両親の世話をし、夫の給仕をし、必要とあらば家計の足しにパートで働く。長い一日の終わり、妻は当然にこにこしていなければならない。素直で従順で心やさしい妻!」これに対して、男性の言い分は「女子工員の給料は男より安い。家計の足しになる程度だ。結局男が稼ぎ頭であり、女の本分は家庭を守ることにある。このシステムはうまくいっている!」 8)

 次に、「男の仕事」「女の仕事」という性による振り分けが、女性自身も含めて当然であるかのように受け入れられてきた背景を考えてみたい。

引用文献

5)VDT: Visual Display Terminalsの略
6)熊沢誠『女性労働と企業社会』116-122頁、岩波新書、2000年。
7)竹信三恵子『日本株式会社の女たち』10-12頁、朝日新聞社、1994年。
8) レーシー・ワイレン/中川雄一訳「アメリカ女性が日本人と仕事をする心得」内橋克人・ 奥村宏・佐高信編『日本型経営と国際社会』199-200頁、1994年、岩波書店。

げんなり・・・

2016年03月10日 23時30分52秒 | 日記
 今日も外からも中でも怒られどおし、謝りどおしの一日でした。外から怒られるのは理解度、認知度が落ちている人にとってはわけのわかんないことだらけで大変だし、そもそもがおかしいからでそれに対する怒りのはけ口になっている。中では、いったいなんでしょうね。気分によってなんでこんな怒られ方をしなきゃなんないんだろうっていう言い方をされるので、すり減りの私はこれまで働いてきた実績を全部否定されているみたいに感じてしまってすごくきついです。いちいちへこんでいてはもたないけれどへこみます。事務経験ありますっていっても、今まで経験したことのない内容と性質、事柄ばかりで慣れないことの連続です。そんなにかんたんに適応できず、です。さぼろうとおもっているわけでも、わざとおそくやろうとしているわけでもなく一生懸命にやっているつもりです。でも慣れないことばかり続くから、細かい所で抜けたり間違ったりします。そうすると何重にも怒られたり、小姑みたいな人にくどくど言われたり。なんかプライドずたずただし、げんなりです。でもボランティアでごはんを食べていくことはできず、他に行くところはないので、がんばるしかないんでしょうね。たぶんみんなそれぞれにいやだなーと少しずつつ思ったりしながらやっています。でもそうでもないかな。本気モードで面接にのぞんで採用された方もいらっしゃいます。乗り気でなかった私とは大違い。すごいなーと思います。

 なんかすごく疲れてしまっています。立ち時間が長かったのですごく足が痛いです。書面をつくらなければならないし、上野が遠過ぎてボッティチェリ展にいけません。三連休しかないかな。すごく混むでしょうね。えっと明日が休みなので私の中で今日は金曜日の感覚。そいでもって明日が本当の金曜日で、明後日は出勤しなければならない土曜日。一日が終わると金曜日の感覚になってしまうだろうけれど、残念ながら土曜日でお休みは日曜日だけ。そいでもって来週は月曜日から金曜日までフル勤務ってか。スタミナがもちませんわ。今日も一日話し続けたので喉痛くって声出すのしんどい。夕方携帯に迷惑メールを連投されてしまったために携帯電話のショップに寄ったら混んでいて30分ぐらい待ったかな。すごいきつかったです。足痛いしお腹すいたしはやく部屋にもどりたかったです。冷静に考えてみたら毎日9時帰りたかったです。残業は義務ではないので、私には終了時刻になれば買える権利があるはず。でも実際には帰りますとは言えなくなっています。帰りたい時にはあらかじめ申し出ないといけないような感じになっています。ほんとうはそんなのおかしいってわかってしまったから、こんなのおかしいよなーって思いながらやっています。連日一時間ってけっこう大きいです。疲れとなって蓄積されていることに気づきました。前職の腐りきった会社で連日10時間とか11時間とか働くことができていたのは、長くやって勝手がわかっていたから。自分の裁量で順番を決めながらやることができていたから。何がどこにあるとか全部わかっていたから。ホチキス、ふせん、セロテープがどこにあるか人にきかないとわからない所で働くのはきついです。奥歯が痛い。疲れなのか。治療の途中でどうにかなってしまっているところがまた痛むのか。一日の終わり。今日も疲れ過ぎて言葉を失い、涙がにじみました。明日の朝はアラームで起きなくてもいいい。とにかくそれが嬉しい3月の寒い夜を過ごしています。権力に人格否定された心の傷はやっぱり深いのかな。とにかく疲れました。こんな長いひとりごと、読んでくださりありがとうございました。

大変ですが・・・

2016年03月09日 22時33分51秒 | 日記
 今日も一日耳が遠くなっていたりご理解のむずかしい方々を主に相手にしながら大きな声で説明し続けたので声出すのがしんどいです。ガラガラで声涸れています。若い方も数人いらして、これは職員さん大変ですよね、と言ってくれる人もいました。理解度が高いと話が早くてほんとに助かります。病院や施設で働いていなくても毎日のようにたぶんそうなんだろうなあっていう方々とお会いしているのでなんだかおなかいっぱいな感じです。お怒りをかってもできるだけ納得いただけるようにお詫びをしながら説明していきます。それでなんとかご理解いただけた時は本当にほっとします。こんなに大変でもううヤダー!と思っている業務ですが、年末まで延長の可能性ありと打診をされたら、必要としていただけるのであればやらせていただきたいと思います、と答えてしまいました。疲弊しながら行き場もなく社会から孤立し続けた日々の辛さを思うとやれませんとは言えなかったです。安くても生活もあります。正解かどうかわかりませんがもう少しやってみます。チームでやっていますが年齢が高くなっている方とご一緒するのは結構しんどいです。私もだんだん近づきつつありますが、話がくどいしそんなこと気にしないで流せばいいのにと思うことがすごくひっかかって言わないではいられなかったりするみたいなので正直きびしいです。自分も気がついた時にはそうなっているのかな。むずかしいですね。どこにいってもあること。話し半分できき流しながら一緒の時だけ合わせるしかないかなと思います。外から怒られ中でもいろいろと人によって違うことを言われたり怒られたり、どうすりゃいいんだと涙がでそうになることあります。それでも社会から孤立していた日々の辛さを思えば今はやるしかないかな。年末に両親と妹の眠るお墓の前でさめざめと泣いたことを思い出します。気力が失せて身動きとれない自分が情けなくって情けなくってどうしようもなかった。ほんとにきつかったです。その時を思えば必要とされる場所があるのだったら今はやるしかないかな。くさりきった会社のことはもういいです。やるだけのことはやりました。もう何も出てこないし変わらないので最後に言いたいことをささっとまとめられたらそれでいいです。どっちみち変わりません。闘いの本当の終わりが近づいてきたようです。人生の時間には限りがあるのでこれで終わりにしたいと思います。もちろん悔しさもまだまだありますがもういいかなって思えてきました。明日出勤したら金曜は振替休日。きついっすねー。

「忘れた」出来事と生きる

2016年03月08日 22時02分47秒 | 気になるニュースあれこれ
(東日本大震災5年)私たちは変わったのか:1 記憶と忘却

http://digital.asahi.com/articles/DA3S12246078.html?rm=150

■「忘れた」出来事と生きる 若松英輔さん(批評家)

 震災のことをあの頃のように思い出すことができない。あんな大事なことを忘れていく自分が許せない、そう思う方の気持ちはよく分かります。誤解を恐れずにいえば、人は出来事を必ず、忘れる。

 震災が起こったときは非日常的経験です。でも、私たちは今、日常に生きている。誰もが日常のなかに非日常を包みこみながら生きている。出来事が自分の心にあまりに近くなって意識できなくなる、それが人々のいう「忘れる」という現象ではないでしょうか。

 でも、それは記憶が消えたことを意味しません。むしろ、意識の表層から、もっと奥深いところへと移っている。わざわざ思い出さなくても、その出来事とともに生きている状態を指すように思われます。

 私にも近しい者を亡くした経験があります。ある日、そのことをタクシーで女性の運転手さんに話したことがありました。すると彼女が、「私もそうなんです。旦那が亡くなって15年になります」と。「この仕事を始めて子どもを2人育てました。それで、お父さんに時々手を合わせて言うんです。思い出してあげなくてごめんねって」

 なんと深い情愛だろうと思いました。確かに夫が、彼女の意識に上る回数は少ない。しかし、決して忘れたわけではない。亡くなった相手を思うより、2人の一番大事なものを守り育てることを、彼女は亡くなった夫とともにやってきたのではないでしょうか。こういう追憶の道もあるのです。

 彼女は子どもを懸命に育てることで、人生を自分にとって誇り高いものにしたかったのではないかとも思います。自分をいつくしむことがそのまま、亡き人との忘れえない経験を守ることになる。逝った人々をずっと意識するより、心の奥に抱いて生き続けることが託されたもっとも大事なことと感じていたのだと思います。震災の経験も同じではないでしょうか。

 気をつけたいのは、同じ経験は二つとないということです。似ているようですべての経験には、それぞれ固有の意義がある。大きい悲しみも小さい悲しみもありません。あるのは、ただ一つの悲しみです。それぞれの出来事にはかけがえがない意味が潜んでいる。

 他者には理解されないとしても、自分の心のなかにとても大切な何かがあることに気が付くと、同じものが他の人の胸にも宿っていることを感じ始めます。悲しみが心と心をつなぐ。まったく異なる二つの悲しみが響き合う。

 今、改めて「個」であることの重要さを考えています。個の自覚を深めることで、他者との理解を深めていくのではないでしょうか。それぞれの人生には何人も代わり得ない意味があるとそれぞれの人間が深く認識することが、現代日本におけるきわめて切迫した問題なのではないでしょうか。

 震災以後、私たちは幾度となく「集う」機会を経験してきました。「集う」と「群れる」は違います。個は集い、大衆は群れる。

 特定の思想信条を掲げながら群衆の中に溺れると人は、個では何もできないと思い込んでしまう。こうした思考は今の日本にある、大きな落とし穴ではないでしょうか。「群れる」と人は、個々の心にある苦しみや悲しみを十分に顧みることができなくなる。個の問題よりも、世に言う「大きな」ことの方が重要に思えてくる。

 「集う」のはよい。でも、そこでも人はあくまで個である尊厳と意味を見失ってはならない。それは被災地の現状を考えるときも、とても重要な視座のように感じられます。

 震災から5年だと世の中が騒ぐ。しかし、被災地の方は同じようには感じていないと思います。彼、彼女らにとっては、それは時間の経過によって変化することではないからです。克服したとか、アンダーコントロールとか、どう言おうとこの震災は終わらないということです。終わらないことを覚悟できたら、忘れる、忘れないということから自由になれるのだと思います。

 (聞き手・村上研志)

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 わかまつえいすけ 1968年生まれ。2007年、三田文学新人賞。13~15年、「三田文学」編集長。著書に「魂にふれる 大震災と、生きている死者」「悲しみの秘義」「イエス伝」など。

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 若松英輔さんの言葉は心に沁み入ります。次の休日にあらためてかみしめたいです。ヘロヘロに疲れて今はあまり頭が回っていません。今日もご年配の方々やなかなかにむずかしいことをおっしゃる方々にご理解いただくために大きな声で話し続けたので喉がかれています。昨日一日だけでかなりバッテリーがきれてしまい十分に回復できないまま今日を迎えたのでかなりきつかったです。色々とむずかしいことがあり過ぎてすごく大変。色々とやりたことがあれど疲れてしまってやれないですね。