たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アンデルセンの生涯』より_『人魚姫』(2)

2017年10月23日 18時29分58秒 | 本あれこれ



 昨日の『ハンナのお花屋さん』の余韻がじわんときているところで、山室静さんの『人魚姫』の鑑賞と解説の続きを書こうと思います。チャットをするときのクリスのハンドルネームがアンデルセン、ミアのハンドルネームがリトルマーメイド。うまく盛り込まれています。人魚姫つながりで『スマイルマーメイド』もほんとの幸せってなんだろうなっていう、いう余韻をじわんと客席に残してくれた素敵な舞台でした。


「姫たちは15になると、海上に浮び上って外の世界を眺めることを許される。一ばん上の姉が、まず15になって海面に出て、帰ってからそこで見た美しい光景を妹たちに話す。次にはその下の姫が、その次の年にはまたその下の姫が。6人姉妹の末の娘の地上の世界へのあこがれは、こうして姉たちの報告を次から次へときくうちに、いやが上にもかきたてられる。これはたくみに末の姫、また読者の関心を盛り上げてゆく技巧で、やがて来る末の姫の美しくも悲しい体験を引き出す、よき序曲をなしている。


  いよいよ末の姫の海上へ出て行ける日が来る。海の上へ出てみると、美しい夕焼空の下に、一艘の三本マストの船が浮び、船の上では折しも王子の誕生日であかあかと灯がともり、楽隊が鳴り、ダンスがあり、さかんに花火をあげたりしている。かねてから地上の生活にあこがれていた姫の心は、いやが上にもかきたてられて、美しい王子を見ては、たちまち恋ごころに捉えられてしまう。


  そのうちに嵐が来て、王子の乗っていた船は砕け、王子は海に投げだされる。王子が死んでは大変と、姫は必死で危険を冒して助けだし、修道院の浜辺の砂の上に失神している王子を置いて、自分は岩陰に隠れて様子を見ている。王子はやがて少女たちに見出され、手当を受けて意識を回復するが、人魚姫が助けてくれたのだとは気がつかない。姫は悲しく海の家に帰るが、王子恋しさに、どうかして人間になって地上に行き、王子にあいたいと思う。祖母のいうところでは、三百年も生きられる人魚にくらべて、人間はずっと短命なのだが、不死の魂というものを持っていて、死んだあともいつまでも生きていて天国へのぼって行く。一方、人魚の生命は長いけれど、死ねばそれっきりで、海の泡になってしまうのだ、と。

  姫はそれを聞いて、たった一 日でもいいから人間になって、不死の魂をさずかり、死んでからは天国に行きたいと願う。しかし、祖母はいう――そんなことを願うものではない。人魚の方がずっと幸福なのだ。それにお前が不死の魂をえたいと思っても、それは容易なことでは得られない。誰か人間がお前を愛して、自分の父や母よりもいとしく思い、牧師さんを仲立ちにして、お前と永遠の愛を誓いあったとき、はじめてお前は人間の魂を分けてもらえるのだ。だけど、そんなことは起こりっこない。人間は二本の不恰好なつっかい棒を足とよんで自慢にして、お前の美しい魚のしっぼを醜いものと見ているのだからね、と。


  足を二本のつっかい棒と呼んでいるようなおもしろい表現もあるが、全体としてここ らの描写は、 ことに人魚と人間の区別をいっている点は 、少しく煩瑣(はんさ)で、こちたきものに感じられるか知れない。例えば小川未明の『赤い蟻燭と人魚』も、人魚と人間の 交渉を扱った作だが、そこには人間と人魚のそんな区別立てはない。人魚はそのまますっ と人間の世界にはいって行き、そこに少しの違和も生じない。ただ欲に目がぐらんだ人間の夫婦が娘を香具師(やし)に売渡すことで悲劇が起り、人魚の母親の復讐によって人間が罰せられるのだが、この悲劇と処罰においても、人間と人魚は対等に立っている。あるいは、人魚の方が人間よりも純粋で、愛情もふかく、そしてまた嵐をまき起すほどの力をもった、力強いものとさえされている ところがある。しかし、加害者である人間にも被害者である人 魚にも、浄化はなく、救いはない。だから物語は、やりどころのない憤りを残すだけだ。

  それと比べると、アンデルセンのこの作での人間と人魚は、きびしく差別され、言わ ば段階づけられているのを見落せない。くわしく見れば、それは動物としての人魚を一段と人間よりも下のものと見、人間の上にさらに天上界をおいた三段構造でダンテの『神曲』が描いている、地獄・人間界・天国に何程か対応する、キリスト教の世界観から来たもの だ。その各界は厳重に区別されていて、それぞれの世界の間には容易には越えられない断 絶があるのだ。


  だから、人魚姫が人間の世界に入るには、並々でない犠牲をはらわなければならず、人間が天国に入るのも同じことだ。それだけ、そこに悲劇がはらまれ、戦いと努力が要請され、そのはてではじめて勝利の喜びと、救いが達せられるのだ 。キリスト教の影響を深く受けているヨーロッパの文学は、原則としてすべてこういう三段構造を、底にひめているのである。『人魚姫』は『神曲』などに比べれば片々たる童話にすぎない。けれど、やはりこの基本的構造をもっているのがおもしろい。(もっとも、アンデルセンの作でもこれはやや特殊な例で、むしろ大多数の作では、人間も動物も植物も、さらには無生物さえが、同じ平面で対等に扱われている感がある。)


  さて人魚姫は、どうしても人間になりたいあまり、ごうごうと渦巻き流れている潮流を泳ぎこえて、魔女を訪ねていく。この魔女の住んでいる場所、彼女の姿、また彼女が姫の 頼みをきいて魔法の薬を作ってくれるあたりの描写は、他の誰にも真似のできないすばらしさだ。彼女の家は難破して死んだ人間の白骨でできていたとか、魔女はヒキガエルに口うつしで餌をやってい、そのだぶだぶに太った胸の上には大きな海蛇がくねっていたとか、彼女が姫の願いをきいてぞっとするような声で笑うと、ヒキガエルと蛇は下にころげ落ちてのたくった、とか。アンデルセンはたしかに 、魔女や妖精を生き生きと現前させるすばらしい 想像力をもっていたのだ。


 ことに、魔女が必要なだけに強い薬をつくるために、自分の胸をかきむしって血をまぜた上に、姫に彼女の一番の宝である美しい声を犠牲にさせたなどは、すばらしい着想だ。そしてまた、彼女がその薬を飲んで失神してしまい、やがて気がついた時には魚の尻尾が二本の脚になっていたが、その足で歩くと「一足ごとに、尖った錐(きり)か、鋭いナイフの上を踏んでゆく思いをした」というのは、すばらしいという以上に、恋をした経験がある者にとっては、胸をしめつけられる表現ではないか。それでも姫は、喜んでこの苦しみに堪えて、舞うように軽やかに足を運ぶのである。」


 長くなったてきたのでもう一回書きます。


アンデルセンの生涯 (現代教養文庫)
山室 静
社会思想社

この記事についてブログを書く
« 花組『ハンナのお花屋さん』_... | トップ | 花組『ハンナのお花屋さん』_... »

本あれこれ」カテゴリの最新記事