たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より(3)

2014年09月16日 21時45分44秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「雇用機会均等法に対する当時の経済界の激しい危機感と、「日本経済は女性を使うことで成り立ってきた」との冷静な指摘は、一見矛盾するように見える、しかし、この二つの立場は、実は同じことを言っているのかもしれない、と私は気づいた。
 
 女性は家庭にいてほしい。しかし、これだけでは正解ではない。同時に、外で働いてもらわなければ困るのである。ただし、男性と変らない質の仕事をより安い賃金でこなし、好況時には登場するが不況の際には黙って退場してくれる限りは。さらに、働く合間に子供を育てて労働力も再生産してくれなければならない。「均等法」への財・官界のアレルギーは、こうした便利な「資源」を失うことへの不安だったのではないか。

「男女平等」は、近代社会では、ごく自然の「建前」である。それを法制化することに、近代の高等教育を受けた知識人であるはずの財・官界の人びとが、(「女性が職場に進出すれば日本経済はだめになる」との危機論が続出したことなど)強い調子の反対意見を、しかも公然と述べるというのは、おそらく、単に「頭が古く」「差別意識が強い」からだけではない。女性差別や男女分業は「経済的」であり、「発展の土台」である、といった世界観があってこそ、彼らは恥ずかしいと感じることもなく、近代社会の「建前」に正面切って反論することができたのではなかろうか。
 
 この世界観は、「女の時代」の80年代にも、「少産化」で母性保護が突然浮上し始めた90年代にも、世代を超えて引き継がれていることを、私は知った。メーカーに勤める団塊世代の大卒男性社員は、「女性差別が日本を維持している」と公言した。「単純な事務作業を引き受け、夫の長時間労働を我慢しながら、老人介護を無料でこなして税金の支出を抑える女性がいなければ、日本の経済はつぶれる」と言うのである。若手社員も必ずしも例外ではなかった。ある20代の既婚男性社員は、「仕事以外のすべてのことを妻が引き受けてくれるから、僕は仕事ができる。男女分業や女性差別が悪いと言われようと、この仕組みに頼らざるを得ない」と言い切った。

 男女分業待望論は、男らしさ、女らしさを求める過去へのノスタルジアだけから来るのではない、「経済効率化のための必要悪」として、企業社会にしっかりと息づいているのである。「男女平等」が当然の常識のように語られ始めた現在も、いったん企業社会に足を踏み入れると、人々は手近な「効率」を求めて本卦帰りしてしまう。

 しかし、「男女分業」は、本当に経済的で効率的なのだろうか。「会社は男の場所」との思い込みとは逆に、女性はすでに、被雇用者の四割近くを占めている。それなのに、女性に働きにくい仕組みを温存しておくことが、はたしてなお「効率的」なのか。」


(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、10‐12頁より引用しています。)