たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『ちひろのことば』より_銀杏の落葉 アカシアの木

2014年09月03日 14時27分07秒 | いわさきちひろさん
 11月になるとある日突然、目がさめるように庭が明るくなる。銀杏の葉が真黄いろになって一せいに庭に散り敷くからである。それは雪の日の朝の感動に似た、秋の日の一ときの思いがけないよろこびである。けれどこの黄いろい華麗なよろこびを去年も今年も、多分一昨年もあじわっていない。銀杏の葉が色づきはじめたかなと思ううちにまだ緑いろがのこっているというのに、茶色に枯れてお隣からふってくる欅の落葉にまじっていつとはなしに散ってしまうのである。裏にできた新青梅街道に車がたくさん走るようになったせいであろうか。

 その新青梅街道にしばらくして細い、か弱いアカシヤの街路樹がうえられた。
 
 公害にも寒さにも負けないようにと街路樹には、みなていねいにわらがまきつけてあった。

 最初の冬がすぎて、春になりおそまきながらアカシヤがみどりの芽をふいたときには犬をつれてよくその街路樹の下をいききした。みどりの葉は日日豊かさをまして、うちの二階から見ると小さな葉がさやさやとかさなって、やわらかい丸味をつくっていった。まだ小さい街路樹だけれど、やがては豊かに繁ってキエフかどこかのきれいな通りのように、その葉かげからちらちらと車の往来が見えるようになるにちがいないと想像したりした。先日久しぶりにもう12歳になったうちの犬をつれて街路樹の下を歩いてみると、なんとアカシヤは二本もかれていた。キエフどころではない。

 思えばうちの金木犀の花だって、今年は咲いたと思ううちに香りもださずに散ってしまった。ここではベトナムのような直接的戦場ではない。国会の自民党の強行採決だってテレビの中でのことだと思ってしまえるような、郊外のささやかな自然のなかなのに。銀杏もアカシヤも金木犀もみんななんというかなしい犠牲者(木)であることか。もちろんこの地球上に人間が安心して暮らせるところがあるなどとは、私もずっと前から思わなくなっていたけれど。

(『ちひろのことば』講談社文庫、昭和53年発行、79-80頁より引用しています。)