65オヤジのスタイルブック

体罰の先にあるもの2

朝の報道番組で、戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏が出演していた。彼は、いつものように体罰する教師を擁護しました。

体罰を肯定するためには、あらゆる理屈を用いて論じる。そして、マスコミの批判、さらに自殺した生徒にまで及んだ時には、この人の中にあるものは、いつの時代であっても、体罰は普遍的なものだと言う確固たる信念にある。

彼の中にあるものは、生徒を指導する手段は体罰しかない。その結果、事故や自殺などにより生徒が死のうが、自己の信念に基づいたものだから、責任はないと言うことだと思う。

彼の言葉で不快な朝を迎えた後、春の高校バレーの決勝戦を観てすがすがしい気持ちになりました。

愛知代表の星城と大阪代表の大塚の男子決勝。星城が3対1で勝利し、高校3冠の偉業を達成しました。両校の監督は、選手の自主性に任せ、ほとんど指示を出す事無くベンチに座り、選手を見守っている。

終了後、星城監督は、選手の自主性を称え、選手からいろいろなことを学んでいる趣旨のコメントを残された。

両校のプレーを見ていると、よく考えてプレーしていることがつぶさにわかった。体罰など無くとも、彼らは、バレーを楽しみ、3冠に偉業を成し遂げたのだ。

明日は、高校サッカーの決勝。高校サッカーにも、生徒の教師の熱い絆を感じることが多い。底には、サッカーを楽しみ、その先にある人間教育が垣間見える。そんな世界には、萎縮するような体罰の世界は存在しないのだ。

体罰をする側のモラルは、もはや欠如し暴力による支配への優越感に浸る欲望的な教師の存在しかないと僕は考える。


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