あなたが次に楽しみにしているイベントはなんですか?寝ること、朝起きること、デート、練習試合、宝くじを買いに行くこと。人それぞれだと思います。
では、これから会う人に会うのは楽しみですか?
意図的に特定の人に会おうとすることって、実は意外と珍しいことだと思います。たとえば、渋谷でお友達を待ち合わせたとします。そのお友達には意図的に会うわけですが、それ以外の通行人には偶然会うわけですね。その数は、渋谷の場合数千人にも上ってしまいそうですね。
このような偶然でなくても、会いたいと思って会う人は何人いるのでしょうか。仕事のミーティングの場合、確かに会わなきゃ仕事が進まないから会いたいということもありますが、本当に会いたい!と思って会っているわけではないケースがほとんどでしょう。学校の授業でも、隣の席の人に会いたい!と思っていくのではなく、授業を受けに行ってるわけです。
とすると、特定の人に意図的に、会いたいと思って会うことってすごいことなんですよね。これらの人とは最低2回会うわけですが、これもすごいことなんです。地球64億人の中の一人に、100歳生きたとしても36525日しかない中2回も会うんですよ。特別じゃないですか。だって、本当は一日20万人会わないと全世界の人に会えないんです。(だからなんだ、という人もいるのでしょうが、私は一人でも多くの人と知り合いたいと願います。)
ここまで意識しなくても、あなたが楽しみにしているのと同様、あなたに会うことについて相手も楽しみにしているわけですよね。嬉しいことです。
こういうことを考えているうちに、それだけじゃないような気がしてきたのです。そして、私の中で1つの結論が出ました。それは、一日20万人に会うより、誰かと2度目に会う方が何倍も大事なこと。学べることが多いこと。それは相手を気に入ったからだけではなく、もっと何かあるような気がするのです。
生物たる人は、定義上不変な物ではない。極端にいうと、人の生き方とその変化を愛することこそが、本当の愛なのでは。誰かが優しいから愛するのではない。今後の成長・老化過程にその優しさの維持・増幅が期待できるからといっても過言ではないのでは。「安定」を恋愛対象に求める人は多いが、それは自分が創り上げた相手のイメージが気に入っただけなのではないか。人が今後もそれだけを貫こうとするようであれば、当然離婚率が高い水準で「安定」してしまうだろう。
蛇足ですが:変化し続ける環境に適応できる種が生き残るのは納得できますが、変化し続ける自分自身もその環境の一部なのだと思います。ダーウィンさんも納得してくれるのではないかと勝手に思っています。
さて・・・話を戻します。
人が変わるのだから、毎回新しい人と会っているようなものである。それを同じ人だと思って、プライベートで権利義務を主張し合い、相手の時間を拘束したり、相手の趣味を否定したりするのは論外なのではないだろうか。相手は常に初対面の人。
(断っておきますが、人を分類したり、評価したり、トレンドを見出すのは自己防衛や時間短縮のためにかなり重要な機能であることを否定しているわけではありません。ただ、視点を提供しようとしているだけです。)
・・・こう偉そうに書いていても、私もある程度安定を求めてしまっていると思います。人よりリスクテイカーであるとしても、それは井戸の中の蛙なのかもしれない。どんぐりの背比べなのかもしれない。
毎回を初対面を考え、毎朝生まれ変わったと考えれたら全く新しい世界が広がるのかかもしれません。トライしない手はないので、翌朝生まれ変わってみたいと思います。そして、会いたいと思う人の生まれ変わった姿に会えるのを、いままで以上に楽しみたいと思います。
「はじめまして。次の瞬間にお互い全く別人に生まれ変わりますが、末永くよろしくお願いします。」
注:話題間めちゃくちゃに飛び回ってすいません。言い訳かもしれませんが、完全にまとまった文章を書いているときは100%正直じゃないような気がします・・・やはり文章に書かされているときもありますからね。言葉の流れは美しくもあり、恐ろしくもあるものです。
では、これから会う人に会うのは楽しみですか?
意図的に特定の人に会おうとすることって、実は意外と珍しいことだと思います。たとえば、渋谷でお友達を待ち合わせたとします。そのお友達には意図的に会うわけですが、それ以外の通行人には偶然会うわけですね。その数は、渋谷の場合数千人にも上ってしまいそうですね。
このような偶然でなくても、会いたいと思って会う人は何人いるのでしょうか。仕事のミーティングの場合、確かに会わなきゃ仕事が進まないから会いたいということもありますが、本当に会いたい!と思って会っているわけではないケースがほとんどでしょう。学校の授業でも、隣の席の人に会いたい!と思っていくのではなく、授業を受けに行ってるわけです。
とすると、特定の人に意図的に、会いたいと思って会うことってすごいことなんですよね。これらの人とは最低2回会うわけですが、これもすごいことなんです。地球64億人の中の一人に、100歳生きたとしても36525日しかない中2回も会うんですよ。特別じゃないですか。だって、本当は一日20万人会わないと全世界の人に会えないんです。(だからなんだ、という人もいるのでしょうが、私は一人でも多くの人と知り合いたいと願います。)
ここまで意識しなくても、あなたが楽しみにしているのと同様、あなたに会うことについて相手も楽しみにしているわけですよね。嬉しいことです。
こういうことを考えているうちに、それだけじゃないような気がしてきたのです。そして、私の中で1つの結論が出ました。それは、一日20万人に会うより、誰かと2度目に会う方が何倍も大事なこと。学べることが多いこと。それは相手を気に入ったからだけではなく、もっと何かあるような気がするのです。
生物たる人は、定義上不変な物ではない。極端にいうと、人の生き方とその変化を愛することこそが、本当の愛なのでは。誰かが優しいから愛するのではない。今後の成長・老化過程にその優しさの維持・増幅が期待できるからといっても過言ではないのでは。「安定」を恋愛対象に求める人は多いが、それは自分が創り上げた相手のイメージが気に入っただけなのではないか。人が今後もそれだけを貫こうとするようであれば、当然離婚率が高い水準で「安定」してしまうだろう。
蛇足ですが:変化し続ける環境に適応できる種が生き残るのは納得できますが、変化し続ける自分自身もその環境の一部なのだと思います。ダーウィンさんも納得してくれるのではないかと勝手に思っています。
さて・・・話を戻します。
人が変わるのだから、毎回新しい人と会っているようなものである。それを同じ人だと思って、プライベートで権利義務を主張し合い、相手の時間を拘束したり、相手の趣味を否定したりするのは論外なのではないだろうか。相手は常に初対面の人。
(断っておきますが、人を分類したり、評価したり、トレンドを見出すのは自己防衛や時間短縮のためにかなり重要な機能であることを否定しているわけではありません。ただ、視点を提供しようとしているだけです。)
・・・こう偉そうに書いていても、私もある程度安定を求めてしまっていると思います。人よりリスクテイカーであるとしても、それは井戸の中の蛙なのかもしれない。どんぐりの背比べなのかもしれない。
毎回を初対面を考え、毎朝生まれ変わったと考えれたら全く新しい世界が広がるのかかもしれません。トライしない手はないので、翌朝生まれ変わってみたいと思います。そして、会いたいと思う人の生まれ変わった姿に会えるのを、いままで以上に楽しみたいと思います。
「はじめまして。次の瞬間にお互い全く別人に生まれ変わりますが、末永くよろしくお願いします。」
注:話題間めちゃくちゃに飛び回ってすいません。言い訳かもしれませんが、完全にまとまった文章を書いているときは100%正直じゃないような気がします・・・やはり文章に書かされているときもありますからね。言葉の流れは美しくもあり、恐ろしくもあるものです。
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