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「学」とは何か-日月神事から

私の事を日月神示を引用して、科学偏重の神の破壊者だと批判する方が居ます。私の書いた科学系記事を読んでどうしてそんな解釈になるのか、その時点で理解に苦しむのですが。



その方の引用ロジックが著しく間違っていると思われるのでここで指摘しておきます。

[月光の巻、第三十四帖]
 かみかかりはよしなされよ。
 そなたは学に囚われて御座るぞ。
 科学を越えて神の学に生きて下されよ。
 そなたは自分で自分の首をしめるようなことをして御座るぞ。
 自分で勝手に小さい自分の神をつくってゐるぞ。
 一度その神をすてなされ、

この引用を以って、私を「学に囚われた」偏狭な人物だと指摘されたいのでしょう。しかし一方、日月神示にはこういう一文もあります。

[日月の巻~第11帖]
 学も神力ぞ、神だぞ。学が人間の智恵と思っていると とんでもないことになるぞ。

引用文中の「科学を越えろ」とは、学を修めてきた人に向けられた言葉です。これまで学をさぼってきた人たちを肯定している訳ではありません。学無き審神者(さにわ=霊言の判定役)は神力なき審神者と心得るべきで、そんな審神者が何人集まっても正しい判定などできるはずがありません。

科学の限界は科学を学んだ当人が一番よく知っています。それは学んだからこそ到達した境地なのです。そこから目指した神と、これまで学びをさぼってきた人たちが目指す神が全く違うことを理解する必要があります。

日月神示は記述全体で一つの意味をなす、他者ではなく読む者に向けた気付きのヒント集だと私は捉えています。日月神示を語ろうと思うなら、通しで最低10回、できればそれ以上は読み込む必要があります。そうでないと、都合の良いところだけ拾い読みして何かを予言したり誰かを批判して終わりの有害文書となってしまいます。

私はクリスチャンですが、聖書以上に日月神示にも目を通しています。これまで20回に届かないくらいは通読したでしょうか。しかしそれでも、その意味の1/100も理解できたとは思っていません。ですから日月神示を語る資格は私にもないのかもしれません。

しかし、世の中にあまりにも安易な引用、霊言・予言の類が出回っているので、私なりに「読み方」の注意を喚起させて頂きました。

こういう話に関心がない方にはお詫び申し上げます。本の勉強、学校の勉強もそれなりに大事なのだと理解して頂ければ幸いです。


 * * *


 よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる
 (春の巻 第35帖)


キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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