O's Note

いつまで続くか、この駄文

ある日突然

2008-06-07 22:00:00 | 涜書感想文
 自分が逮捕されることなどないと思って生活しています。もちろん、なぐる蹴るといった蛮行はしない、まかり間違っても人をあやめることなどないという意味です。
 しかし、本当に逮捕されるようなことはないのだろうかと思うと、何かの「はずみ」でそうなる可能性もないとはいえないかもしれません。自分としてはよかれと思ってやっている、あるいはそれが法律違反であるとの認識もなく行っていることが、見方によっては法に触れている場合があるのかもしれません。
 逮捕されれば身柄が拘束され、裁判で判決がおりるまで拘置所生活となります。裁判で無罪や執行猶予であればそのまま拘束が解かれ、有罪であれば拘置所から刑務所に身柄が移されて刑に服することになります。

島村英紀『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』(講談社文庫、2007年10月)

 生協で著者名を見たとき、『どこかで聞いた名前だな。』と思いページをめくって『ははあ、あのときの!』と合点がいきました。
 島村英紀氏。元北海道大学教授で、前国立極地研究所所長。海底地震計の権威で、数年前に新聞紙上を賑わせた事件の当事者でした。
 その事件の発端は、業務上横領として北大から告訴されたことにあります。海底地震計の売買をめぐって不適切な会計処理があったということでした。しかし業務上横領での立件が困難であったのか、起訴事実はノルウェーのベルゲン大学に対する詐欺ということになり、結局、執行猶予付き判決で結審したというのが、島村氏をめぐる事件でした。
 逮捕は、何の前触れもなく突然訪れます。
 この本は、その逮捕から、判決を受けるまでの170日以上の拘留期間中の「あれこれ」をまとめたもので、とくに拘置所(札幌拘置支所)の施設設備、日々の生活、食事など、非常に詳細に記載されています。その逮捕が不当なものかどうかを考えることとは別に、不謹慎ながら「のぞき見」的興味を満たしてくれる内容でした。

 しばしば伝聞されるように、拘置所に入るに際して入所儀礼なるものがあります。それは、素っ裸にされ、身体検査されるもので、それが一国の宰相であっても同様で、この屈辱的行為によって戦意が喪失するとさえいわれています。

「つぎに、衣服を全部取るように言われる。拘置所に持ち込んでいいものと悪いものがあるはずで、その検査なのであろう。
 寒々としたコンクリートの床に薄っぺらいござが敷かれ、その上で、真っ裸にさせられる。
 (中略)
 麻薬や武器や、もしかしたら毒薬を隠している可能性を調べるのであろう。後ろを向かされて、尻の穴や、口の中や、足の裏や、髪の毛の中まで見られた。」[pp.35-36]

 こうして入所儀礼が終わって拘置所での生活が始まります。島村氏は、2006年2月1日に入所し、7月21日に保釈されるまで171日間、拘置所暮らしを経験しています。
 
 この本の「すごさ」は、実に詳細な記録が行われていることでしょう。
 たとえば、島村氏は、収容後接見禁止措置が執られ独房で過ごすことになりましたが、その独房(全体で三畳の長方形)の様子は次のように記録されています。

「独房のうち二畳半ほどには横75センチメートル、縦160センチメートルと団地サイズよりもっと小さめの畳が三枚敷いてあり、残りは、肌色の防水塗料貼りで、洗面台と様式の水洗トイレがある。防水塗料部分は奥行き90センチメートルある。」[p.41]
「独房のトイレは洋式、水洗である。トイレに扉はなく、1メートル四方ぐらいの、懲役受刑者が素人作業で作ったらしい木製の衝立で、廊下から目隠しされているだけだ。幸いなことに、トイレの臭いはまったくない。」[pp.41-42]

 どうやってサイズを測ったのだろうかと思ってしまいますが、サイズのみならず、色、臭いまで記載していることが、読み手をも独房に引き込んでしまうほどです。

 さらに驚いたのが日々の献立。
 「食事もパラダイス」と見出しを付けているように、それなりに我慢できる(満足できる?)程度の食事だったようです。

「たとえば、うまかった食事にはこんなものがあった。
 アジフライ。脂ののった鮭の切り身の塩焼き。トンカツ。十分大きなチキンカツ。エボダイの塩焼き。赤飯や鰻丼もそれぞれ一回だけだが、出た。葡萄入りコッペパン。スープカレー。
 じつは、私の家よりもずっと頻繁にデザートや果物も出た。
 毎日出るわけではなかったが、うまかったデザートは、こんなものだった。
 プリン。ヨーグルト。ミルクコーヒー。マンゴーゼリー。カフェオレ。アイスクリーム(ラクトアイス)。バタークッキー。」[p.125]

 こんな風にまとめて書いている部分もあれば、日付順に書いてある部分もあり、その記録の詳しさに改めて驚かされます。

 全体を通してみても、島村氏の感情表現よりは事実の記録が圧倒的に多く、これがまた本書の魅力になっています。
 というのも、係争事件は、両方の意見を聞かなければなりませんし、片方の言い分だけを聞いて、「相手が悪い」と軽々に判断できません。ましてやこの種の問題に疎い小生など、「逮捕される方が悪い」と短絡的に判断してしまいがちです。
 本書は、そうこうこととは別に、拘置所生活はどのようなものかを淡々と記載することを通して、もう一つの問題を提起しているように感じます。それは、人権はどこまで尊重されなければならないかということです。
 まだ刑が確定していない状態の被疑者であれば、推定無罪の原則があるといいますから、当然、人権は尊重されなければならないでしょう。しかしそれが、一般の生活を送っている我々と同様であるべきなのかどうなのかは、判断が付きません。「同様である」ということは簡単ですが、もう一方で、「ある程度の制約は仕方がない。その制約によって人権が損なわれる可能性もあるかもしれない」という考え方も浮かんできます。では、どこまでなら容認できるのか。人権のレベルはどこで線引きできるのか。絶えずそんなことを考えて島村氏の文章を読みました。
 
 ところで、本書では、取り調べに関する記載もかなり紹介されています。
 取調室には、検事と検察事務官がいて、被疑者とのやりとりをメモした検事が、検察事務官に口述筆記させ、それを調書用紙に打ち出すそうです。

「調書は、端に朱色の四角い印のついた特殊な調書専用のA4判の罫線付き横書き用紙にプリントアウトされる。横書き。ソフトウェアは『一太郎』を使っている。」[pp.62-63]

 厳しい取り調べを受けている最中に、ワープロのソフトウェアにまで目を向ける島村氏の観察眼に驚かされますが、一太郎ユーザとしては、同じソフトを使って、一方は論文を作成し、もう一方は調書を作成していることが、何とも不思議に感じました。

※本書の内容は、島村氏自身が書中で紹介しているように、自身のホームページに掲載されています。

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