O's Note

いつまで続くか、この駄文

ひさし、ぶり

2008-07-12 15:00:00 | 涜書感想文
 大学受験を控えた日々。受験勉強と共にいつもそばにあったのはラジオでした。
 そんな時期、NHKFMの番組で、短いラジオドラマを放送していました。
 そのラジオドラマを聞いて、「これはスゴイ!」と驚き、『原作を読んでみなければ』と思って読んだ本が井上ひさし氏が書いた『十二人の手紙』でした。
 この本は、その名のとおり、12人の手紙がモチーフになった短編小説です。一編一編がそこはかとない人の生き方を描いててい、何の関係もないと思われた一つ一つのエピソードが最後に結びつく筋立てに、鳥肌が立つほど驚いた記憶があります。

 さて、久しぶりに井上ひさし本を手に取りました。

 井上ひさし『イソップ株式会社』(中公文庫、2008年6月)

 さゆりと洋介という、ふたりの姉弟は、夏休みを利用して、おばあちゃんの住む町に滞在します。ふたりの父は、イソップ株式会社という小さな出版社を経営しています。その父親から、毎日、「お話」が届きます。この本は、さゆりと洋介の夏休みの出来事と、父親から届く「お話」、そして出版社で働く弘子さんとの関係が、互いに絡み合いながら展開されるという、何とも贅沢な小説でした。

 とりわけ、『さすが』と感心したのが洋介の夏休みの課題を通して語られる井上ひさし氏の言語感覚の鋭さです。
 洋介が「発見した」課題には、「ところによってモノの数え方が違う」「母音の長短で意味が変わり、擬音語の澄む濁るでは感じが対立する」などというものがあります(その他に「噂の時速は8キロである」「カラスは他の鳥の鳴き声のまねをする」などという、面白い仮説もあります)。
 たとえば、「母音の長短で意味が変わり、擬音語の澄む濁るでは感じが対立する」では、さゆりと洋介に次のように語らせています。
 まず、母音の長短。
 洋介がよろず屋のおばあさんからアイスクリームをタダでもらう場面[pp.121-122]。

「いったいどういうこと。おばあさんにどんな魔法をかけたの」
さゆりは店先の、日除けのかかったベンチに腰をおろして、洋介が取ってくれた苺バニラをなめながら訊ねた。
「オバーサンとのばすところを、オバサンと縮めて読んであげたんだ。オジーサンだって縮めるとオジサンになって、いっぺんに若くなるんだよ」
「うん、おもしろい発見よ」
(中略)
「むずかしいことは分からないけど、ほかにもいっぱいあるんだよ。雪と勇気、来てと聞いて、靴と苦痛・・・・」
「ビルとビールもそうよ」
「それから、いますと言います」
「書くと架空もそうだわ」
「土と通知」
「黒と空路と苦労・・・。洋ちゃん、これ夏休みの自由研究になさいよ。スゴイ研究になるわ」
「・・・ぼくって天才?」
「それは背負いすぎ」

 次は擬音語。
 夏祭りの太鼓の練習をした後での洋介とさゆりの会話[pp.129-130]。

「お囃子のお兄さんから、きみの鼓はポンポンではなくボンボンと聞こえるって、注意されてばかりいたんだ。でもそのうちへんなことも気づいた。ボンボンとかポンポンとかいうことばのことを、なんていったっけ」
「・・・擬音語?」
「うん、その擬音語だけど、澄んでるときと濁ってるときとでは、なんだか感じが違ってしまうんだ。大きな太鼓がトントントン・・・これ、どっかおかしいだろ」
「大きな太鼓ならドンドンドンでなくちゃね。そして小さいのがトントントン」
「笛がピーピーならいいけど、ビービーなら下手くそ。おばあちゃんが畑から帰ってきたとき、額から汗がポタポタなら、ご苦労さまっていうけど、汗がボタボタなら、きたないなといってしまう。こそ泥ならコソコソ、強盗ならゴソゴソ・・・」

 小説全体のモチーフはもっと別の、深いところにあるのですが、こういった言葉の遊びをさりげなく小説の中に含ませながら、ストーリーを展開していくというのは、井上ひさし氏の真骨頂といえるのではないでしょうか。
 それとは別に、この本には和田誠氏の挿絵がカラーで挿入されています。これもまた読むことを楽しくさせてくれます。
 
 でも、今となっては、小説で描かれているような「田舎」もなく、「さゆり」も「洋介」もいないんでしょうね。

小説と事実

2008-06-17 22:44:55 | 涜書感想文
 昨夜、一冊の本を読み終えました。

 貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、2008年5月、46版)

 小説は、連続幼女誘拐事件に遭遇した捜査一係長(佐伯)と、心の中に埋めがたい闇を持つ人物(彼)と二元的に進みます。全部で69に区分された物語は、奇数が「彼」の物語、偶数が佐伯の物語です。
 遅々として解決に向かわない連続幼女誘拐事件の指揮を執る佐伯の苦悩、そして、心の闇を取り払いたいと思う「彼」の宗教への思い入れ。そして佐伯の家族関係やスキャンダル、「彼」がのめり込む新興宗教。あまりに人間的な苦悩と、あまりに猟奇的な宗教儀式、この二つが交互に描かれます。
 そして何より、最後の大どんでん返し。この小説は、大団円で解決したように描かれますが、実は解決していない事件が最後の3行で示されます。
 まさに慟哭。

 今日、おおよそ20年前に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が死刑を執行されたというニュースが配信されました。
 「彼」の現在の年齢を見て、『もうそんなになるのか』と、あの当時報道された写真の顔つきを思い出していました。
 『慟哭』は、文庫本の初版が1999年、単行本は1993年に発行されています。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が1988年~89年の事件でした。この小説はあの事件の猟奇さに着想を求めたのではないかと思ってしまいます。
 とはいえ、シチュエーションはまったく異なりますし、小説と事実は、何の因果関係もありません。

 被害者、そして遺族の立場に立てば死刑はやむなしという意見もあるでしょう。一方で死刑制度が世界的に廃止の流れにある中で、「先進国」である日本で死刑制度を持つなどとんでもないという意見もあるでしょう。
 しかしそんなことは関係ありません。
 事実は、自分の愛する子どもが殺害され、そして子どもを危めた人物を許せないという親の気持ち。
 その気持ちは、制度としての死刑などとは無関係な、人として当然の感情だと思います。

 昨夜読み終えた小説と、実際に20年前に発生した事件の当事者の死刑執行。
 あまりにかけ離れた関係ながら、どうしても結びつけて考えてしまう感情を、子を持つ親として、抑えることができません。
 そして強く思います、やっぱり許せないと。

ある日突然

2008-06-07 22:00:00 | 涜書感想文
 自分が逮捕されることなどないと思って生活しています。もちろん、なぐる蹴るといった蛮行はしない、まかり間違っても人をあやめることなどないという意味です。
 しかし、本当に逮捕されるようなことはないのだろうかと思うと、何かの「はずみ」でそうなる可能性もないとはいえないかもしれません。自分としてはよかれと思ってやっている、あるいはそれが法律違反であるとの認識もなく行っていることが、見方によっては法に触れている場合があるのかもしれません。
 逮捕されれば身柄が拘束され、裁判で判決がおりるまで拘置所生活となります。裁判で無罪や執行猶予であればそのまま拘束が解かれ、有罪であれば拘置所から刑務所に身柄が移されて刑に服することになります。

島村英紀『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』(講談社文庫、2007年10月)

 生協で著者名を見たとき、『どこかで聞いた名前だな。』と思いページをめくって『ははあ、あのときの!』と合点がいきました。
 島村英紀氏。元北海道大学教授で、前国立極地研究所所長。海底地震計の権威で、数年前に新聞紙上を賑わせた事件の当事者でした。
 その事件の発端は、業務上横領として北大から告訴されたことにあります。海底地震計の売買をめぐって不適切な会計処理があったということでした。しかし業務上横領での立件が困難であったのか、起訴事実はノルウェーのベルゲン大学に対する詐欺ということになり、結局、執行猶予付き判決で結審したというのが、島村氏をめぐる事件でした。
 逮捕は、何の前触れもなく突然訪れます。
 この本は、その逮捕から、判決を受けるまでの170日以上の拘留期間中の「あれこれ」をまとめたもので、とくに拘置所(札幌拘置支所)の施設設備、日々の生活、食事など、非常に詳細に記載されています。その逮捕が不当なものかどうかを考えることとは別に、不謹慎ながら「のぞき見」的興味を満たしてくれる内容でした。

 しばしば伝聞されるように、拘置所に入るに際して入所儀礼なるものがあります。それは、素っ裸にされ、身体検査されるもので、それが一国の宰相であっても同様で、この屈辱的行為によって戦意が喪失するとさえいわれています。

「つぎに、衣服を全部取るように言われる。拘置所に持ち込んでいいものと悪いものがあるはずで、その検査なのであろう。
 寒々としたコンクリートの床に薄っぺらいござが敷かれ、その上で、真っ裸にさせられる。
 (中略)
 麻薬や武器や、もしかしたら毒薬を隠している可能性を調べるのであろう。後ろを向かされて、尻の穴や、口の中や、足の裏や、髪の毛の中まで見られた。」[pp.35-36]

 こうして入所儀礼が終わって拘置所での生活が始まります。島村氏は、2006年2月1日に入所し、7月21日に保釈されるまで171日間、拘置所暮らしを経験しています。
 
 この本の「すごさ」は、実に詳細な記録が行われていることでしょう。
 たとえば、島村氏は、収容後接見禁止措置が執られ独房で過ごすことになりましたが、その独房(全体で三畳の長方形)の様子は次のように記録されています。

「独房のうち二畳半ほどには横75センチメートル、縦160センチメートルと団地サイズよりもっと小さめの畳が三枚敷いてあり、残りは、肌色の防水塗料貼りで、洗面台と様式の水洗トイレがある。防水塗料部分は奥行き90センチメートルある。」[p.41]
「独房のトイレは洋式、水洗である。トイレに扉はなく、1メートル四方ぐらいの、懲役受刑者が素人作業で作ったらしい木製の衝立で、廊下から目隠しされているだけだ。幸いなことに、トイレの臭いはまったくない。」[pp.41-42]

 どうやってサイズを測ったのだろうかと思ってしまいますが、サイズのみならず、色、臭いまで記載していることが、読み手をも独房に引き込んでしまうほどです。

 さらに驚いたのが日々の献立。
 「食事もパラダイス」と見出しを付けているように、それなりに我慢できる(満足できる?)程度の食事だったようです。

「たとえば、うまかった食事にはこんなものがあった。
 アジフライ。脂ののった鮭の切り身の塩焼き。トンカツ。十分大きなチキンカツ。エボダイの塩焼き。赤飯や鰻丼もそれぞれ一回だけだが、出た。葡萄入りコッペパン。スープカレー。
 じつは、私の家よりもずっと頻繁にデザートや果物も出た。
 毎日出るわけではなかったが、うまかったデザートは、こんなものだった。
 プリン。ヨーグルト。ミルクコーヒー。マンゴーゼリー。カフェオレ。アイスクリーム(ラクトアイス)。バタークッキー。」[p.125]

 こんな風にまとめて書いている部分もあれば、日付順に書いてある部分もあり、その記録の詳しさに改めて驚かされます。

 全体を通してみても、島村氏の感情表現よりは事実の記録が圧倒的に多く、これがまた本書の魅力になっています。
 というのも、係争事件は、両方の意見を聞かなければなりませんし、片方の言い分だけを聞いて、「相手が悪い」と軽々に判断できません。ましてやこの種の問題に疎い小生など、「逮捕される方が悪い」と短絡的に判断してしまいがちです。
 本書は、そうこうこととは別に、拘置所生活はどのようなものかを淡々と記載することを通して、もう一つの問題を提起しているように感じます。それは、人権はどこまで尊重されなければならないかということです。
 まだ刑が確定していない状態の被疑者であれば、推定無罪の原則があるといいますから、当然、人権は尊重されなければならないでしょう。しかしそれが、一般の生活を送っている我々と同様であるべきなのかどうなのかは、判断が付きません。「同様である」ということは簡単ですが、もう一方で、「ある程度の制約は仕方がない。その制約によって人権が損なわれる可能性もあるかもしれない」という考え方も浮かんできます。では、どこまでなら容認できるのか。人権のレベルはどこで線引きできるのか。絶えずそんなことを考えて島村氏の文章を読みました。
 
 ところで、本書では、取り調べに関する記載もかなり紹介されています。
 取調室には、検事と検察事務官がいて、被疑者とのやりとりをメモした検事が、検察事務官に口述筆記させ、それを調書用紙に打ち出すそうです。

「調書は、端に朱色の四角い印のついた特殊な調書専用のA4判の罫線付き横書き用紙にプリントアウトされる。横書き。ソフトウェアは『一太郎』を使っている。」[pp.62-63]

 厳しい取り調べを受けている最中に、ワープロのソフトウェアにまで目を向ける島村氏の観察眼に驚かされますが、一太郎ユーザとしては、同じソフトを使って、一方は論文を作成し、もう一方は調書を作成していることが、何とも不思議に感じました。

※本書の内容は、島村氏自身が書中で紹介しているように、自身のホームページに掲載されています。

賛否両論

2008-05-26 21:21:21 | 涜書感想文
 その装丁から『面白そうだな』と思って手に取った本がありました。
 結論からいえば、まったく趣味に合わない本でした。(笑)
 WEBで調べてみると、どうやらその作風には賛否両論があるようで、趣味に合わないと思っているのは小生だけではないようです。
 途中、読み飛ばしながら(冗長すぎるんですよ)、何とか「読み終えた」ふりをしていますが、問題は、その本が3分冊されている本で、現在刊行されているのは2冊目までということです。
 そしてもっと悩ましいことは、それが推理小説であるということ。当然2冊目まででは事件の解決には至らず、いくつかの事件が発生しているだけ(現在、5名が殺されている!)。
 この場合、やっぱり3冊目が発売されたら買うべきなのでしょうか、うーん、悩む。

のりとハサミ

2008-05-17 22:00:00 | 涜書感想文
 今年の1月のNスペで、2夜連続で感染爆発(パンデミック・フルー)について、ドラマと解説による番組が放映されました。
 恥ずかしながらパンデミック・フルーやプレパンデミック・ワクチンなる言葉をこの番組で初めて聞いたのですが、これらが新型インフルエンザの爆発的流行あるいは流行前ワクチンを意味するもので、番組では、最近話題になっている新型インフルエンザの一つ、H5N1型鳥インフルエンザの猛毒性がいかに脅威を及ぼすかが描かれていました。
 ミャンマーのハリケーン被害、中国の大震災の陰に隠れてしまった感がありますが、当地でもH5N1型鳥インフルエンザに罹患した白鳥の死骸が見つかりました。もしこれがヒトに感染することになれば、ハリケーンや地震以上の死者数になることが予測され、その影響は海を越えて全世界に広がります。
 ちょうど、当地で白鳥の死骸からH5N1型鳥インフルエンザウイルスが検出されたことが新聞に掲載された時期に読んでいた本がこれでした。

 岡田晴恵『H5N1型ウイルス襲来-新型インフルエンザから家族を守れ!』(角川SSC新書、2007年11月)

 Nスペでは、この岡田氏が書いた別の本を参考にしていたようです。
 
 それにしても、見えない敵を相手にするというのは、何とも不気味です。本の中ではスペイン風邪(1918~19年)が引き合いにされていますが、当時と今とでは世界がかなり狭くなっています、人口密度にしても高速移動手段にしても。こんな中で新型インフルエンザが猛威をふるう状態になれば・・・。
 この本には、H5N1型鳥インフルエンザが流行しないようにするための対策や、流行した時の対策などが示されていますが、万が一、感染爆発を起こした場合、流行が収束するまでに最低必要な食糧と日用品は2ヶ月分であるといいます[p.77]。備えあれば憂いなしといいますが、何しろ、まったく実感がわきません。まずそんなに大量の備えができるでしょうか。この本を読んだ今でも、『2ヶ月分の食糧をどこに置いておく?』ということが最初の問題となり、『場所がないよな』と思ってしまって、いまだに何の手も打てません。
 かくなる上は、H5N1型鳥インフルエンザが爆発しないように、各国政府の迅速な行動に期待するしかないといわざるを得ません。

 ところでH5N1型というのは、ウイルスの表面にある二種類の糖タンパクに由来しています。HAとNA。HAはウイルスが細胞に侵入する時に、細胞の受容体(外部の物を体内に受け入れるものなんだとか)にくっついて細胞内に入っていくときの「のり」の役目をし、NAは、ウイルスが感染細胞から別の細胞に出て行くときに感染細胞から離れる「ハサミ」の役目をするそうです。そしてH5というのはHAの
5番目の亜種、N1はNAの1番目の亜種という意味だそうです[p.32]。
 のりとハサミ。
 子供たちが工作をするときに使う道具ならばかわいいもんですが・・・。

逃げる

2008-05-01 21:00:00 | 涜書感想文
 今日も異常営業。今日は来てましたね、諸先生。

 さて、4月のはじめに、本屋大賞2008が発表になりました。
 大賞を受賞した作家の本を読んだことがありませんでしたので、昼食後、早速生協へ。
 「これ、本屋大賞を受賞したんですって」といって手に取ると、一緒にいたI先生「あ、今読んでます。読み終わったらお貸ししますよ。」
 手に取ったその本は、原稿用紙1,000枚、503ページにも及ぶ大部の本。

 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』(新潮社、2007年11月)

 3週間ほどかかって、やっと読み終えました。

 パレード中の首相が暗殺され、その犯人として警察に追われる元宅配便運転手の青柳雅春。ストーリーは、その青柳が警察の追っ手を振り切り、ひたすら逃げる2日間を描いています。
 著者自身が述べていることですが、この本はケネディの暗殺犯とされたオズワルドの事件をヒントにしています。「犯人」ははじめから明らかで、その「犯人」である青柳の逃亡劇がアップテンポで展開します。
 もちろん、青柳が真犯人ではないことも最初に描かれます。あずかり知らぬ陰謀によって青柳は犯人に仕立て上げられて逃げ回るという設定です。
 
 この本を読みながら、「こんなに逃げ回る話は過去にもあったよな」と思って思い出したのが、スピルバーグが撮った『激突』。この映画、主人公が運転する自動車を大型タンクローリーがただひたすら追いかけるだけの映画でしたが、タンクローリーの運転手の顔が見えないだけに、主人公には訳がわからない何か巨大な力で押しつぶされる怖さがありました。
 まさに『ゴールデンスランバー』もそれと同じような展開で、主人公である青柳は「訳わかんない」状態の中でただひたすら逃げ回ります。
 
 青柳の首尾がどうなったのかは明かせませんが、実は、この本は、すべてを読み終えた後に、もう一度読みたくなる部分がありました。それが、事件から20年後を書いた第3部「事件から二十年後」。503ページの中でわずか15ページほどの部分ですが、これが本の中ではかなり最初の部分(58ページ~72ページ)に配置されています。読み手からすれば、青柳を取り巻く主立った登場人物の顛末を最初に読むことになります。しかし登場人物のほとんどがそれ以降のページで登場するため、第3部では、それぞれの人物が物語の中でどんな役割を担っているのかについては、あっさりとしか描かれていません。
 それが全編を読み終えて、もう一度読みたくなり、そして読み返してみると、『ははあ、なるほど』と唸ってしまうような、心憎い構成となっています。
 また「書き方」という点に関連しますが、セリフに少し洒落っ気がみられます。すべての箇所でそうであるわけではありませんが、少なくない数で洒落っ気がみられます。それは、セリフの長さを揃えること。

 たとえば、青柳とその彼女である樋口の会話。[p.96]

 「親しき仲にも礼儀あり、という言葉が」
 「あるけど、そういうんじゃないんだよ」
 「板チョコを半分に割るのがそんなに?」
 「青柳君は少しでも大きいほうをくれる」
 「それが樋口の機嫌を損ねたってこと?」
 「無茶を言ってるのはわかってるんだよ」
 
 ブログの表示上は語尾の部分にズレがあるかもしれませんが、本の中では見事にそろって印刷されています。はじめは偶然かなと思いましたが、このような文章の長さを揃えている箇所がいくつもみられます。

 始めから伏線だらけというのも特徴でしょう。
 後半になると、物語の最初で出ていた事柄や会話が再び登場します。それが繰り返し描かれますので分量が増えるというのもわかりますが、これだけ多くなると気が抜けないということになり、それがまた、この本を面白くしているのかもしれません。

 舞台が仙台である、ということも、個人的には身近に感じることになりました。
 物語には東二番町、花京院、上杉(かみすぎ)などなど、多くの仙台の地名が登場します。小生自身は仙台には1年弱しか住んだことがありませんが(上杉に住んでいた)、そして今と昔では風景がだいぶ変わっているでしょうが、かすかに残る当時の景色を思い出しながら読みました。

 最後に、この本をお貸しくださったI先生、ありがとうございました。先生がいくつかのページで付けた折り目。これはきっとブログで引用しようとした内容なのだなと思いつつ、読み終えました。(笑)

面白いとは聞いていましたが。

2008-04-05 22:11:33 | 涜書感想文
 「東野圭吾の本、ずいぶん読んでるよね。」
 「うん。」
 「フェリーの中で読む本で、何か面白いのない?」
 「これ。」

 東野圭吾『容疑者xの献身』(文藝春秋、2005年8月)

 ほぼ毎日のようにひやかす生協書籍コーナーにも文庫化された東野圭吾本が並んでいます。『一冊ぐらい読んでおかなければな』と思いつつ、初めて読んだ本が『容疑者xの献身』でした。
 
 会計なんて勉強していると、他人からは数学好き、あるいは数学が得意と見られがちですが、数学は好きではなく、したがって苦手です(ちなみに会計は、足し算、引き算、割り算、かけ算だけですし、それも電卓を叩けば簡単に計算してくれます)。そしてそれが高じて、「ふん、数学や物理をやって何が面白いんだ」と逆ギレする始末。(笑)
 ところがこの本の主人公が帝都大学物理学科第13研究室の若き物理学者湯川、しかももう一人の主人公は数学を担当する高校教師石神。『謎解きで難しい数式なんて出てきたらお手上げだな』と思いつつ読み始めたのはいうまでもありません。

 事件は石神が住むアパートの隣に1年前に引っ越してきた母娘の部屋で起こります。復縁を迫り、金を無心する元夫。母娘はその挙動に耐えかねて元夫を絞殺してしまいます。それを知った石神は、母娘を助けるために策を授けます。
 350ページにも及ぶこの本は、最後に湯川によってそのトリックが暴かれるまで、石神がどんなトリック仕掛けたのかをめぐって展開します。
 実は、高校教師の石神と大学助教授の湯川は大学の同窓で、大学時代は二人とも天才の名を欲しいままにした好敵手だったという設定です。したがって石神がしくんだトリックを湯川がどう暴くのかというところに面白さがあります。
 ちなみに、予想どおりに随所に数学問題が取り上げられています。しかしそれらは、この本を読み進める上で何の障害にもならないもので、むしろ、数学嫌いの小生に興味深ささえ提供してくれます。その中で、謎解きをする湯川がこだわった問題があります。

「草薙刑事に謝っておいてくれ。協力できなくてすまないと」
「謝る必要なんてない。それより、また会いに来てもいいかな。」
「そりゃあ構わないが・・・・・」
「酒を飲みながら数学の話をしよう」
「数学と殺人事件の話、じゃないのか」
湯川は肩をすくめ、鼻の上に皺を作った。
「そうなるかもな。ところで、数学の新しい問題をひとつ思いついた。暇なときに考えてくれないか」
「どういうのだ」
「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか。ただし、解答は必ず存在する、どうだ、面白いと思わないか」
「興味深い問題だ」石神は湯川の顔を見つめた。「考えておこう」
湯川はひとつ頷き、踵を返した。そのまま通りに向かって歩きだした。[p.148]

 これはどうやらP≠NP問題として知られているもののようです。こんな数式を見てもこれが何を意味し、何が問題なのか、まったくわかりませんが、「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか」ということであると解きほぐされると、問題の本質はわからないまでも、小生に考える「隙」を与えてくれます。そして改めて数学は論理学なんだなと思い起こさせてくれます。

 トリックの構成も見事で、前後関係も明解で、一気に読ませてしまう東野氏の力量に感服の至りです。映画のせいでフェリーでは読了できませんでしたが、帰ってきてから寝不足気味で読み終えました。見れば、物理学者湯川シリーズがあるんだとか。またまた読み漁る作家が増えました。

 ところで、人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいのでしょうか。うーん、難しい。

権力の壁

2008-04-02 22:30:00 | 涜書感想文
 新年度2日目。
 今日は会議が2つ。一般論として会議というのは理屈で成り立っているようなところと、場の雰囲気で成り立っているようなところがあります。筋が通っていればそれでよしという参加者もいますし、成り行き任せという参加者もいます。しかし、議長や参加者がその立場を利用して提案をごり押しするということになると穏やかではありません。当然、反発されますし、それが対立を生むことになります。
 その場が名の通った大学であるとすると・・・。

 トーマス・神村『アカデミック・ハザード-象牙の塔殺人事件』(鳴海社、2007年7月)

 帯には「大学という闇社会」の文字。しかも「これは、内部告発か・・・」とも。大いにそそります。

 子供の時代を米国で育ち、帰国後日本の大学に入学したものの日本の大学生活になじめず、米国の大学に留学。そのまま勉強を続けようとしていたところ、父の死によって日本の大学への就職を決める。
 そんな経歴を持つ主人公、吉野聡。
 この小説は、聡が東都大学の環境量子情報学科助教授として赴任するところから始まります。ちなみにこの東都大学、東京の文京地区にあり、「世界では、東都大学のレベルは、それほど高くない。」[p.7]という設定です。
 聡が赴任して早々、やさしく接してくれる事務職員佐々木女史(聡が佐々木女史に想いを描く冒頭の書き方が軽すぎるような気がしますが)、研究費の使い方で意見する長谷川女史。そして歯に衣着せぬ物言いをしつつも聡をバックアップする板倉助教授。この3人の存在が物語後半で活きてきます。
 対する「悪者」は白井学部長を中心とする大学執行部。この執行部の面々は文化省の役人とつながっているため、理屈というよりも権力を最大限行使します。白井学部長の行状がエピソードとして描かれるのは、院生が抽出に成功した結晶の剽窃、校費の流用、補助金の不正使用、秘書へのセクハラ(実はここに書けないほど許せない悪行)、そして同僚教授の殺人教唆。
 
 この本は一種の謎解き物ですので、謎解きの部分をここで紹介するわけにはいきませんが、何しろ舞台が大学です、謎解き以外でも個人的に面白いと思ったところがいくつかあります。
 たとえば院生である加治が作った結晶を剽窃し、その結晶によって日本学会賞を受賞することになった白井学部長について語る板倉のセリフ。

「吉野君は感じたことがないだろうけど、才能のない研究者ほどみじめなものはないんだよ。それが、有名大学の教授になったらなおさらだ。他人からみれば、大学教授になってうらやましいと思われるかもしれないが、研究のアイデアが浮かんでこないのでは、かえってつらいんだ。そして、結局、自己嫌悪にさいなまれる。だからそういう連中は、その反動で権力抗争にうつつを抜かすようになる。白井や東郷がいい例さ。」[p.85]
(東郷は東都大学学長)

 グサッ。
 小説の舞台と小生の立場などレベルが違いすぎますが、研究のアイディアが浮かんでこないというのはそれなりに身につまされる話で自己嫌悪の連続。その反動で別のことにうつつを抜かしているのかしらん。幸いにして勤務先には権力抗争などないので、別のことというのはラジコンヘリコプターレベルですが。(笑)
 
 ところで、この本には著者略歴が記載されていません。調べてみると聡と同じような経歴を持つ現役の大学教員のようです。ここで描かれているようなことが「東都大学」であったのでしょうかねぇ。
 蛇足ながら、『白い巨塔』の東教授の出身大学も東都大学。東都大学はやっぱり闇社会。(笑)

身内意識

2008-03-22 10:00:00 | 涜書感想文
 「これ、今日入荷したばかりです。お買い上げありがとうございます。」
 そういわれるまでもなく、その表紙から必然的に手に取った本。

 夏原武『小説 クロサギ』(小学館文庫、2008年2月)

 この3月に、『クロサギ』がロードショー公開になりました。この本は映画の脚本を小説化した本のようです。
 本の中で扱われる詐欺は贈答詐欺と倒産詐欺。この2つがそれぞれ独立して展開されますが、そのフィクサーである桂木を要として物語がつながっていきます。ちなみにこの2つの事件はコミックス版では第12巻で扱われています。
 贈答詐欺はインターネットを使った今風の話ですし、倒産詐欺はバブル崩壊直後の中小企業の連鎖倒産を扱った話で、現在と過去を結び付けた点で小説化にはうってつけの舞台設定でした。
 ところで、倒産詐欺で、桂木がバー桂で仲間たち(シロサギ)に自説を主張するくだりは、教訓めいて一つの読みどころかなと感じました。

「取引を重ねていくと人間はだんだんと甘くなっていくものだ。現金取引以外はお断り、そう言っている人間だって、回を重ねるとツケを認めるようになる。なぜだか分かるか?」
 桂木はぐるりとあたりを見渡す。鋭い視線を避けるようにみなうつむく。
「どうだ、綿貫?」
「信用、ですかね」
「それじゃあ五十点しかやれんな」
(中略)
「いいか、ここはよく覚えておけ。取引を重ねると信用されるようになる。これは間違った答えじゃないが、百点でもない。信用だけではだめだ。大切なのは身内意識だ」[pp.87-88]

 ツケ(掛け取引)は簿記で扱います。どうして掛け取引が成立するようになったのかを説明するときに、信用経済が発達したからということを話すことがあります。桂木によれば、この説明はかろうじて及第する程度のようです。(苦笑)
 ところで、これに続けて桂木は、豊田商事事件を引き合いに出し、豊田商事商法は、独居老人を相手に人の寂しさにつけ込んで身内が近づかない老人に、朝から晩まで一緒にいてやることで身内意識を植え付けたことであるといいます。そして次のようにいいます。

「セールスというのは、そういう商売だ。しょっちゅう会っていると、身内意識・仲間意識が生まれる。だから、相手の嘘を信じてやりたくなるし、助けてもやりたくなる。それが人間というものだ。よく覚えておけ」[p.89]

 極めて単純な話ですが、こうした単純なことがわかっていても、今でも同種の詐欺が減らないばかりか、それにまんまと引っかかってしまうのですから、人間というのは複雑です。

 さて、コミックスの『クロサギ』の面白さは、さまざまな詐欺がテンポよく取り上げられていているところにあります。つまり連載するところに魅力があります。テレビ番組も、毎回異なる詐欺を扱うことで面白さが出てきます。ところが映画のように単発ものだと、どうしても人間模様に力が入り、詐欺の手口がお留守になるような気がします。それが証拠に、小説でも桂木の過去を取り上げていますが(たぶん映画でもそうなのでしょう)、それは本筋ではないような気がします。
 しかし、小説として読んでも十分に面白い内容ですので、これまでのコミックスの内容を小説としてシリーズ化して欲しいとも思います。絵とセリフだけでは伺い知れないことも、小説ならば十分に書き込むことができると思います。
 『クロサギ』ファンとしては、ぜひそうして欲しいものです。
 そういえば昨日の夕刊に、黒崎役の山ピーへのインタビューが載っていました。それによれば、山ピー自身も「もう一本撮りたい」とのこと。映画もシリーズ化するのでしょうか。

身近にいればいいかも。

2008-03-17 22:20:40 | 涜書感想文
 「ここにあるお皿をぜんぶ割りたいと思うこと、ない?」
 学生時代、あるレストランでアルバイトをしていました。ある時、高く重ねられたお皿の前で、そこの主任が小生に発した一言です。
 いつも温厚な主任でしたがストレスが溜まっていたのかもしれません。物理的に割ることはできても、実際に割ってしまえば、その先、自分の立場や身分が脅かされることを思えば、実行に移すことはできないでしょう。
 こんな時、ストレスを発散できる「誰か」あるいは「何か」が身近にいれば(あれば)、少しは気が楽になるハズです。

 奥田英朗『空中ブランコ』(文春文庫、2008年1月)

 この本は、飛べなくなったサーカス団員、先端恐怖症になったヤクザ、義父のカツラを外したくて仕方ない医学部の大学教員、送球コントロールを失ったプロ野球の3塁手、そして自分の作風が嘔吐や脅迫を招く女流作家などが、精神科医のもとを訪れることによって引き起こされるハプニングが題材になっています。
 ほとんど患者が訪れない伊良部総合病院精神科。この病院の御曹司にして精神科医師、医学博士・伊良部一郎。患者が診察室に入るたび発せられる「いらっしゃーい」という場違いに明るい声。そして簡単な問診後、これまた場違いな雰囲気を持つ看護師マユミちゃんに命じて打つビタミン注射。訪れる誰もが『こんなんじゃダメだ』と思いつつリピーターになり、挙げ句の果てには伊良部にいわれるままの行動に出てしまう。
 人をおちょくるような伊良部ではあっても、時々まともなことをいうために、患者は伊良部のペースに乗せられてしまいます。そして気が付けば、『治ったのではないか』と思わされて物語は終わります。

 読み始めたばかりの頃は『つまらんナンセンスものだな』と思いましたが、読み進めていくうちに、いろいろ考えさせられてしまいました。
 ストレスの原因はほんの些細なことに起因します。しかしそれがもとで自分の思考や行動の様式に変調をきたします。『わかっているけど・・・』という精神状態です。人と人との繋がりの中で生活し、自分がその中で一定程度の「立場」を得ている場合、とくに強く変調をきたします。この本では、登場人物それぞれが一定程度の「立場」に立っており、それゆえにストレスも強いという共通項で描かれています。
 「やればいいじゃん」といういうのは簡単です。でもそれができないから悩むわけです。伊良部は、「やればいいじゃん」というだけではなく、「一緒にやろう」(場合によっては自分だけがやるという悪い癖もあるのですが)という精神の持ち主。最初はこれが本来の病気とは別に患者を悩ませることになるのですが、やがては引きずり込まれてしまいます。
 思えば、伊良部の処方箋は「自分に対する素直な気持ち」だったのかもしれません。

 こんな人物が身近にいてくれれば、どんなにか楽になるでしょう。でも現実は、自分で何か解決策を探さなければならないことも事実ですね。
 で、そんな時、小生はといえば・・・。

事例と難題

2008-03-09 15:30:00 | 涜書感想文
 連続して2冊の本を読みました。

 坂口孝則『牛丼一杯の儲けは9円』(幻冬舎新書、2008年1月)
 山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い-禁じられた数字(下)』(光文社新書、2008年2月)

 坂口氏は現役のバイヤーで、バイヤーと取引先との攻防を多くの事例を用いて紹介しています。会計という切り口から見れば「仕入」がいかに利益に影響を及ぼすかに特化しています。
 また山田氏はいわずと知れた会計士。この本は前著の後編にあたり、帯を見れば「さおだけ完結編」。また完結したハズの女子大生会計士も登場します。

 一見、関係のない2冊の本ですが、さまざまな事例を紹介していること、そして複眼的な見方(山田氏の本のタイトルはまさにそれ)がいかに大事かを語っていることで、共通点があるのではないかと思います。
 ただ一方で、さまざまな事例を知るということは役立つことであり、複眼的な見方ができるようになることも重要であることをわかっていても、前者に比べて後者は、かなり難しいことでしょう。たとえば坂口氏は仕入に関する工夫として「誤差を利用して利益を生む」「仕入れ先を知りつくす」「仕入れルートを変えてみる」「レンタルできるものはレンタルを」という4点を挙げています[坂口、pp.79-104]。これらは仕入を固定的にとらえるのではなく、柔軟な発想で考えるべきであることを意味します。また山田氏も、タイトルにあるように、食い逃げされてもバイトを雇わないのは「会計的な行動」としては正しいが、安定を重視する非会計(ビジネス)の観点からは「食い逃げされないようにバイトを雇え」と述べています[山田、pp.188-192]。
 しかし、これらの複眼的な見方は、一朝一夕で身に付くことではないことも事実でしょう。まったく経験のない人たちにとって、「仕入れルートを変えてみる」といわれても「どうやって変えるのか」という問題が発生しますし、「会計的な行動」と「非会計的な行動」を「どうやってバランスするのか」という疑問も発生します。これらのことは本を読んだだけでは解決しないと思います。

 と、そんなことをつらつら思っていてこんなことを思い出しました。
 小生、会計学の勉強を本格的に始めるキッカケは、指導教授の研究領域に共感を覚えたことでしたが、勉強を進めるうちに、その領域は「これを会計として意識的にとらえる必要がある」と気付いたことがありました。
 会計のメインストリームでは見向きもされないことでも、見方を変えれば、メインストリームとは違う部分に光を当てることで、メインストリームの長所や短所が見えてくる。自分でいうのも面はゆいのですが、このことに気付いてから、ずいぶん勉強が進んだ気がします、いまだ到達点に達していない憾みはありますが。(苦笑)
 
 閑話休題。
 つまりは、この2冊の本は、単なる事例紹介にとどまらず、ものの見方・考え方を指南している本であると考えられ、「読者は、これを意識的にとらえる必要がある」というメッセージが含まれているように思います。
 そういった点で、書かれている内容は読んですぐ身に付くものではないでしょうし、2冊とも、部分的には難しく感じるかもしれません(とくに山田氏の本は1時間半では読めないでしょう、きっと)。
 ですが、こんな見方があって、こう考える場合もある、ということを「意識的に」読むと、「ナルホド」と思えるでしょう。

臨場感たっぷり

2008-02-18 22:30:00 | 涜書感想文
 1日5分のリモコンヘリコプター。
 いまだに不時着したり、激突したりとなかなかうまくコントロールできませんが、うまく離陸して空中を飛び、目標としたところに着陸できると、単純ですがホントにうれしく思います。そしてそのたびにこう思います、本物のパイロットっていうのはスゴイもんだな、と。

 先日、書店で思わず手に取った本。

 内田幹樹『査察機長』(新潮文庫、2008年2月)

 思わずというのは、決してリモコンヘリコプターを操っているからではなく、そこには「今はなき著者」の文字を見つけたからでした。ANAのパイロットだった内田氏。かつて、まったく縁遠い世界の裏話をおもしろおかしく紹介している『機長からのアナウンス』を読み、そのお名前を知っていたからでした。世界各国の機長の共通の話題3Sには苦笑したものです(ちなみには3Sとは、スケジュール・サラリー・セックス)。
 その内田氏がお亡くなりになったことを知り、『まだお若いはずなのに』と、思わず手が出たわけです。

 747-400(ダッシュ400)の新米機長である村井は、国際線のチェックフライト(査察飛行)を迎えます。しかしそのチェッカー(査察官)は、同僚の機長昇格を阻んだほど厳しいチェックを行う氏原キャプテン。村井は、氏原の査察を受けながら12時間以上もフライトすることに多くの不安を抱えます。しかも同じ飛行機の復路でチェックを受けるのは、それまで若手の訓練を行う教官だったベテランパイロットの大隅。当然、往路にも搭乗する大隅に、村井は、氏原のみならず大隅からもチェックを受けるのかと訝しがります。
 チェックフライトは成田からニューヨークJFKまで。物語の大半は、成田離陸前から雪で視界不良のJFKへの着陸までのコクピットでの出来事で構成されています。
 コクピットでパイロットが行う操作が中心ですので、実際のところ、計器類の操作や管制官とのやりとりにかかわる部分は、話としては理解できてもそれがどのような意味を持つのか想像できない部分もたくさんありました。しかしそれでも、雪のJFKに着陸する場面では、村井の緊張感が痛いほど伝わって来ます。
 通常のフライトでも幾重にも積み上げられた確認事項。査察飛行ではそれをチェックされるわけです。成田を出る前から6,700マイル以上離れたニューヨークJFK付近の気候を読む。その天候は悪化することが予想される。場合によっては代替着陸も視野に入れなければならない。そういった臨機応変の対応がすべてチェックの対象になっています。そしてそれらすべては、離陸前のブリーフィングから始まっているわけで、わかっていても気苦労が忍ばれます。
 この物語の面白さは、サスペンス小説を読んでいるようなドキドキ感を味わえることでしょうか。村井と一緒にフライトしているかのような錯覚に何度も襲われました。この感覚は、舞台が自動車や列車、あるいは船舶では決して味わえない感覚です。空飛ぶ潜水艦である飛行機、しかもそれがダッシュ400のような大型機であるからこそなおさら味わえる感覚であると思います。一挙手一投足が見られている中で、主人公がどのように考え、どのように行動するのか、読み手にとっては何とも不安定な緊張感を与えるものでした。また氏原や大隅、チーフパーサーの山野など、数は少ないながら登場人物のキャラクターも魅力的でした(ちなみに、チーフパーサーは、業界ではチーパーと略すらしい。なんかステキ)。

 無事JFKに着陸した村井は、ニューヨークのホテルに確保されたクルールームに呼ばれます。そこには氏原が待っています。
 そこで今回のチェックフライトについて評価を受けるのですが、そこでのやりとりは、航空会社のそれというよりも、一般的な「教育」のあり方を語っているようで妙に印象に残りました。
 たとえば、氏原が村井の飛行について評価する場面で、氏原がいったこのセリフ。

「どのパイロットにも必ず欠点があります。私自身もそうですが。それが見えてしまうからチェックがいやなのだと思います。コーバイ(副操縦士)の時は技量だけでなく、それこそ礼儀作法までいろいろ周りが注意してくれます。でも機長になると誰も何も言ってくれません。ご自分の欠点や弱点に気付いて頂くのがチェックであり、それがチェッカーの役目だと思うのです。落とそうとしてチェックをするチェッカーはいません。欠点をどうやれば克服できるのかお手伝いできれば、と思っています。見方を変えれば、チェックは効率の良い教育です。これからまだまだ先は長いですから、何回もチェックを受けられるでしょう。チェックは増えることはあっても、まず減ることはないでしょうから、堅くなりすぎないで受けて下さい。」[p.332]

 「どの教員にも必ず欠点があります。私自身もそうですが。それが見えてしまうからピアレビューがいやなのだと思います。講師の時は技量だけでなく、それこそ礼儀作法までいろいろ周りが注意してくれます。でも教授になると誰も何も言ってくれません。」なーんて置き換えながら読んでしまいました。(笑)

 読み終えてから、近くの空港でJAL機(ダッシュ400)の滑走路進入事故が発生しました。
 どんなに訓練していても、何度チェックを受けていても、人がやることにはミスが付きものなんでしょうか。

見方変われば。

2008-02-05 21:45:00 | 涜書感想文
 スコットランド滞在中に、テレビで、MARY, QUEEN OF SCOTSという映画を観たことがあります。英語の映画をそのまま観て意味を理解するのは、小生の乏しい英語能力では不可能で、英語ながら字幕を表示した状態で鑑賞。(苦笑)
 この映画、タイトルのとおり、スコットランド女王メアリー・スチュワートを主人公にした映画で、断頭台にくくりつけられ、今まさに命を奪われるという時になって、羽織っていた衣装を脱ぐと、真っ赤なドレスが表れる、という何とも印象的なクライマックスシーンが今でも脳裏に焼き付いています。ところどころ字幕の意味が取れなかったのですが、スコットランドに滞在しているゆえ、「イングランドは非道いことするなあ」と思いながら見終えました(単純ですね)。
 メアリーを死刑に追い込んだのが、メアリーと血がつながっているイングランド女王エリザベス。同時代に生きて、どちらも一国の主として国を守るという使命を帯びていたからこそ引き起こされた悲劇の一つといえるでしょう。
 さて、こうしたことを思い出させてくれた本がこれでした。

 ターシャ・アレグザンダー『エリザベス:ゴールデン・エイジ』(野口百合子訳、ソフトバンク文庫、2007年12月)

 この本は、同名映画を小説化したもののようです。
 タイトルを見たときには『どうせ、イングランド賛歌なんでしょ』と引き気味だったのですが、パラパラと中をのぞくとメアリー・スチュワートが登場するようで、忘れかけていた記憶がよみがえり、次の瞬間にはレジに向かっていました。
 訳者あとがきにも書いてありますが、この物語はすべてが史実に基づいているわけではありません。エリザベスが生きた時代を題材にして、ところどころフィクションを交えて書かれています。
 それでも、フィクションでありながら、この物語の根底を流れる考え方は宗教の「都合良さ」なのかなと思いながら読み終えました。いいかえれば、神の捉え方の違いによって悲劇が生み出されたという考え方です。
 
 フランスから帰国したメアリーはカトリック教徒。メアリー支持派は、当時、ヨーロッパを席捲した無敵艦隊を有するスペイン国王、フィリペ2世。それに対してイングランドは英国国教会(プロテスタント)。イングランド女王はプロテスタントということなり、ここに対立の構図ができあがります。エリザベスもメアリーも、そして取りまきの者も「神はきっとそうお考えになる」「神はお許しにならない」という思いによって行動します。
 たとえば、象徴的な部分を紹介すると次のような場面があります。

 まずは、無敵艦隊とイングランド軍の海戦の場面で、無敵艦隊を指揮するスペインのメディナ・シドニア公に、フィリペ2世から届いた手紙。

「メディナ・シドニア公の船の側面に小舟が近づいてきて、国王の使者が手紙を携えて舷側を上がってきた。スペインではとぎれなくミサが続いており、聖人に祈願が行われている-国じゅうが祈りを捧げている。フィリペはそう記していた。世界は勝利を待ち望んでおり、神は神聖な使命の失敗をお許しにならない、と。」[p.291]

 次は、無敵艦隊を退けた二人の船乗り、ローリー(この物語で重要な役割を演じている)とドレイクの会話。

「無敵艦隊は敗北し、イングランド軍の戦線を破れずに北へ逃走し始めた。ローリーはドレイクを探しだし、二人は勝利に酔いしれて抱き合った。
『君はずっと正しかった』ローリーはドレイクの背中をたたいた。『神はプロテスタント教徒だよ』」[p.315]

 こういった小説を読むと、「信じる者は救われるというが、本当なのだろうか」と考え込んでしまいます。スペインとイングランドの戦いでも、フィリペ2世は「神は神聖な使命の失敗をお許しにならない」といっておきながら、失敗してしまいます。お許しにならないのはフィリペ自身であって、フィリペに処罰されるのは神を信じているシドニア公なのではないか。シドニア公は本当に神に救われるといえるのか。そして神とはいったい何なのか。
 ストーリーや会話も面白かったことは面白かったのですが、ちょっと前に読み終えた『日本の10大新宗教』の影響なのでしょうか、どうしても宗教を考えずに読み進めることができませんでした。

 ところで、この本は映画に基づいていると書きましたが、先日、上京した折、地下鉄駅に2月16日から公開されるというポスターが貼ってありました。本の表紙にも使われているエリザベスの姿が妙にインパクトがありました。こりゃ、観ないわけにはいきませんかね。
 さらにもう一つ。最初に紹介したMARY, QUEEN OF SCOTS。帰国後、日本語字幕でしっかりと観たいと思い、当時、あちこち調べましたが日本語版DVDもビデオも発売されていませんでした(邦題『クイン・メリー/愛と悲しみの生涯 』)。今日、改めて調べてみたのですがやっぱり日本語版はなさそうです。こちらももう一度観たい映画です。

縁遠い世界ではない

2008-01-27 20:10:00 | 涜書感想文
 学生時代に読んだ論文の中で、いまだに引っかかっていることがあります。その論文はスチュワードシップとアカウンタビリティにかかわる内容の論文でした。
 引っかかっていることというのは、企業は誰から財の提供を受けているのかを議論するくだりで、投資家や債権者からはお金を、人間からは労働力を、という説明がされていました。問題だったのは、土地は神(God)からその使用権を委託されていると説明されていたことでした。
 その論文は会計の論文で、精神世界を説く論文ではありません。ちょうど自分の論文で、その論文のその箇所を引用しようと翻訳していたのですが、最後の「土地は神(God)から」の一文で、引用を断念してしまいました。

 さて、最近、新聞の広告でしばしば宣伝されていたので思わず手に取った本があります。

 島田裕巳『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書、2007年11月)

 本書は、明治期以降に誕生した宗教(団体)を、その誕生や歴史、教義、中心人物の生い立ち、現在のありようを紹介したものです。
 当然のことながら、この中には、馴染みのある宗教団体名もあれば、初めて聞く団体名もあります。文化庁の調べによれば、全国展開している宗教法人は400を超えていますので、島田氏も触れていますが、その中から10の団体を選ぶのはかなり無理があることではあります。とはいえ、面白いのは、西日本で生まれ、活動を広げて行っている団体が多いと思われる点です。歴史的に宗教が盛んな地域だからでしょうか。
 ところで、もう一つ、新宗教の盛衰に関して、経済環境と結びつけて総括した部分が興味を惹きました。
 宗教ブームといわれて、一時期、メディアが取り上げるほど目立った活動をしていた団体でさえも、現在では新たな信者を獲得できていないと指摘し、その理由を次のように総括しています。

「新宗教がその勢力を拡大するのは、社会が混乱した状況や過渡期にあるときで、とくに経済発展が著しいときに伸びていく。その点で、現在の状況は、新宗教が活況を呈するものにはなっていない。高度経済成長の時代に勢力を拡大した教団も、信仰をいかに下の世代に継承していくかで苦労している。」[p.211]

 その宗教が生まれたての頃は、日本全体の経済環境はそれほど意識していないのかもしれません。せいぜいその地域の生活レベルが貧困であるという程度でしょう。あるいは不治の病の方が身近にいる程度でしょう。しかし、その教えをもっと多くの人に伝えたい(布教)ということになれば、地域や病気という要因だけでは足りません。そこには、やはり日本全体の経済環境が影響を及ぼすことになるのでしょう。 
 上記の引用の直前には、次のようなことも紹介されています。

「日本の新宗教は、むしろ経済発展が続く海外の諸国でその勢力を拡大している。日本では衰退しつつある教団でも、海外ではめざましい発展をとげている例がある。それも、海外の諸国では、日本で新宗教を爆発的に拡大させた高度経済成長と同じことが起こっているからである。」[p.211]

 日本で立ちゆかなくなっている新宗教が、新たな信者を獲得するために海外に進出しているというわけです。
 日本の新宗教に限らず、同じことは、洋の東西を問わず、1,000年も2,000年も歴史を持つ宗教でも行われて来ましたし(それが現在では軋轢を生んでいることも知られたところです)、新宗教が海外に進出することには、違和感はありません。しかし新宗教が海外に進出できるだけの財を有する、ということにちょっとした驚きを覚えました。

 宗教の問題は、きわめて個人的な問題で、日本においては、法で信教の自由が保障されているわけですし、どれが良くてどれが悪いとはいえません。どこかの誰かのように、仏教系で学びキリスト教系の職場にいるという輩もいるわけですし。
 宗教に関して、そんな自由な環境の中で生活すればするほど、学問の世界に、当然のように神との関係を持ち込む発想をどのように理解すればいいか、大いに苦しむことになります。

劇場型捜査

2008-01-12 22:10:00 | 涜書感想文
 同僚のI先生が寝不足になるほど熱中し、次の日ハイテンション状態で講義を行うことになったというミステリー。小生の場合、「軟禁」された2日間で読みました。

 雫井修介『犯人に告ぐ』(双葉社、2007年9月)

 あらすじについてはI先生のブログに譲るとして(苦笑)、読み応えのあるミステリーでした。
 何より主人公である神奈川県警特別捜査官、巻島史彦警視の人間くささの描き方が秀逸でした。
 文庫の帯には、この小説が映画化されることが告知され、巻島を演じる豊川悦司の写真があります。ということは、必然的にトヨエツを思い浮かべながら本を読むことになるわけで、それがまたピッタリ(最近のSOYJOYのCMはちょいとイメージが違いますが・・・)。
 一人の刑事が事件解決に執念を燃やし、執拗に犯人を追い詰めるというストーリーでは、どうしても主人公をハードボイルド・タッチに描いてしまうものですが(たとえば『新宿鮫』の鮫島のように)、雫井氏は、巻島を非常に人間味あふれる人物として描いています。とくに、ハードボイルドに家族は似合わないと思いこんでいる小生、巻島と家族との絆を描いた場面では、一編の家族物語を読んでいるような気にもなりました。
 一方で、やっぱりハードボイルドな巻島も描かれていて、絶えずアンビバレントな気持ちのまま、ややもすると不安定になりそうな、不思議な気分に浸りながら読み進めました。

 本書では、姿を見せない犯人捜査のプロセスとともに、県警の組織上の問題やニュース番組の報道姿勢などにも一石を投じているのですが、個人的に印象に残った話は次の箇所。
 県警本部長として戻った曽根が、検挙率の低さの原因を分析する会議の場で、組織の人材登用のあり方を野球になぞらえて語る部分。

「とりわけ、人材の投入については大いに改善の余地があるんじゃないのか。岩本部長は何より先に、それに言及すべきだったんだ。結果が出ていないのにスタメンを固定し続ける監督は、すなわち無策なのであり愚かでしかない。我々は右腕に対しては左打者を、左腕に対しては右打者を代打に送るような、臨機応変、適材適所の采配を振るうべきだ。それでこそ管理者としての仕事をしたと言えるんだ。人員には限りはあっても、人材はまだまだ掘り出しようがある、そうじゃないのか?」[上巻、p.161]

 物語の本筋とはまったく離れている部分ですが、こんなにスカッとした、わかりやすい組み立てで語る人が、それを自ら実行してくれればサイコーなんですがね。曽根はまさにハードボイルド。熱く語る人、嫌いではない(でも、曽根は、こそくな手を使うんですが・・・)。

 少し、雫井氏の本を読んでみようかなと思うほど、良くできたミステリーでした。