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kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

龍馬伝・特別展  於:京都文化博物館

2010-06-23 18:15:04 | 京都

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「京都文化博物館」 です。

この建物は元は、明治の名建築 「日本銀行京都支店」 だったもので

1906年(明治39)から1965年(昭和40)に河原町二条に移転するまで、

まちの銀行として活躍していました。

     

1968年(昭和43)5月 平安博物館として開館
1969年(昭和44)3月 国の重要文化財に指定
1988年(昭和63)10月 博物館別館として公開
      
          
この建物は、現在別館であり、本館は、

       

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こんな感じです。現在、

   

特別展 「龍馬伝」 が開催されています。   

(6月19日~7月19日まで) (午前10時~午後6時・金曜のみ7:30まで)

   

京都市中京区三条通高倉角(かど)

京都地下鉄、烏丸線または東西線で「烏丸御池駅」下車 ⑤番出口へ、

三条通を東へ徒歩3分

   

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別館のホールでは、主にNHK「龍馬伝」 を元にしたパネルの展示。

本館の3、4階には龍馬の書簡や遺品、また龍馬に関わりの深い人物の

書簡や遺品など膨大な数の展示でした。

    

暗殺された「近江屋」 を復元したものも見ることができました。

     

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一番の感動は、「龍馬の黒の紋服」 おなじみの写真で着用の物、

あれは、よそ行き用に取ってあったのか、きれいに残っていました。

     

「龍馬の刀・吉行」 この吉行は龍馬の刀として知る人ぞ知る…とか。

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他に、武市半平太の描いた絵や、山内容堂の陣羽織など、

大変沢山の品の展示でした。

そして…、

              

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あまりにも有名な、この少し体を右に傾けた龍馬の写真。

この湿板写真、現存する唯一の龍馬の写ったガラス板写真、

これが、

6月25日、26日、27日 限定公開されるとのこと。

    

これはぜひ、” 特別展を今一度 閲覧いたし申候 ” な気分です (^_^;)

     

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龍馬点21

2010-06-18 02:58:28 | 京都

京都三条大橋

      

京都三条大橋は江戸日本橋を振り出しに東海道五十三の宿場町を経て、

最後の地点。

それから昭和の時代に入り、

      

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この写真では、高山彦九郎の銅像がもうありますし、車も走っています。

    

        

      

徳川三百年の太平が大きく揺れ始めた幕末の頃には、

この辺りも、血なまぐさい政争の渦中にありました。

     

「池田屋騒動」 のあったのは三条大橋から少し西に行った所で、

高瀬川にかかる三条小橋のほとりにありました。

       

ペリー来航以来、尊王攘夷運動も大きくなり、この頃には、

徳川幕府に日本全国をまとめる力はもう無くなってきていました。

   

安政の大獄、桜田門外の変、様々な事件の中、長州、薩摩、土佐藩の動きも

激しくなっていきました。

    

1864年、6月5日、「池田屋騒動」 は起きます。

長州藩士はじめ20数人の志士が池田屋に集まり、蜂起の手はずを整えようと

談合をしていました。

そこへ、近藤勇以下、新選組の隊士たちが一斉に斬り込んだのでした。

池田屋の二階は壮絶な乱闘の場となり、階下へも屋根伝いの道も

封じられ、志士たちは一時間ほどの間に、次々と斬られ亡くなる者、

重傷を負う者、捕えられる者と、多くの犠牲者が出ました。

    

その報復というか、

1864年7月、長州藩は「禁門の変(蛤御門の変)」 を起こします。

      

Img_0010 禁門の変(蛤御門の変)

       

しかし、長州藩はまたもや敗北となりました。

       

その後、1864年8月、4国(英、仏、米、蘭)連合艦隊下関砲撃事件が起きます。

1863年に長州が下関の海峡で4国の船を砲撃したことへの報復でした。

     

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4国艦隊は下関に上陸し砲台を占拠、長州は壊滅的な痛手を受けました。

    

その後、幕府は1866年には第二次の長州征伐をしますが、薩摩藩は

すでに結んでいた「薩長連合」を守り出兵はしませんでした。

    

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将軍家茂が第二次長州征伐に江戸出兵の図

      

幕府軍は旧式装備、長州藩の新型小銃装備には勝てず、家茂死後、

休戦となりました。

         

その頃、龍馬は…、

1864年(元治元年)5月、神戸に「海軍操練所」 が設置され

「軍艦奉行並」の「勝海舟」の指導のもと、多くの土佐藩や諸藩の志士達と共に

訓練に励んでいました。

    

近江屋騒動の起きるまで、あとわずか3年と迫ってきていました。

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京都堀川

2010-06-04 11:28:42 | 京都

鴨川や高瀬川ほどに有名ではありませんが、

京都の中心を南北に流れる川に「堀川」 があります。

堀川に沿って、北から「晴明神社」「一条戻り橋」「二条城」

と続きます。

       

Img_8463_2 一条戻り橋

    

安倍晴明ともゆかりの深い一条戻り橋辺りから歩いて…、

川に降りてみました。

長い間、水が無かったのですが、川の流れが復活し両岸は遊歩道になりました。

      

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堤の石垣に大木が、ギリギリ!植わっています。

根もむき出しで、よく持ちこたえていますね~(@_@)

     

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石垣から、石材で出来た排水溝のようなのが飛びだしていました。

昔はここから雨水やひょっとして家庭排水なども流れ込んだのかもしれません。

      

Img_8471 堀川第一橋・中立売通

      

「堀川第一橋」 堀川を渡る中立売通に当たります。

この橋は、「京都御所」 と 「二条城」 を結ぶ公儀橋でした。

明治6年に架けられた当時の姿そのままに残っています。

    

この橋と並んで、「京都市電」 が走っていた橋がありました。

   

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↑ 写真の一番上に黒アーチ状に見えるのが、「堀川第一橋・公儀橋」

その下、コンクリートの橋が「京都市電」 の走った初代の橋。

そして、堤の一部がレンガ造りの部分が、次に架けられた市電用の橋の土台、

堀川を斜めに架かっていましたので、

レンガ造りの橋の土台も南北にズレています。

川の流れの中に、四角い敷石がいくつかありますが、その横がそれです。

    

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ここに市電が走っていた頃の様子を写した絵葉書を郵便局で求めた事があります。

京都四条大宮郵便局長さんが写されていたものです。 

京都北野線、堀川を斜めに走る(堀川中立売)

    

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川に転げ落ちそう、市電、沢山の人が乗っています。

昭和35~36年頃の様子。

     

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堀川沿いを、こんな風に走っていました。

電車の停留所も、川に落ちてしまいそう。

     

  

堀川は、そもそも自然の川だったものを、1200年前、平安京造営の時、

運河として整備された川で、これで2度目の大変身ということになるんですね。

  

長い間、水の流れない川だった、あまりイメージの良くない堀川は

11年掛けて、50年ぶりに水の流れる川に戻り、

市民の憩える遊歩道も添えられました。

     

昔の姿ではなく、新しい都市の姿になりました。

この姿、有りや?無しや?

いずれにしても、「堀川」 の歴史はこれからも続きます。

      

川の流れの如く…、

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信長の使ったお風呂

2010-05-07 14:56:19 | 京都

先日、織田信長に関する浴室と考えられる遺構が見つかりました。

京都考古資料館で5月1日~16日、

「二条殿御池城跡の風呂」 の 速報展示 が行われています。

        

1日に見てきました。

パネルと遺構のほんの一部が展示されていました。

     

Img_8428 風呂屋形のイメージ図(蒸し風呂形態)

      

      

この浴室遺構は、2基の竈(かまど)、

井戸、土間からなります。

2基の竈は焚口を北に向けて東西に

並んでいます。

竈の内部は火床にしたと思われる炭で覆われていました。

また竈の両側は、灰混じりの非常に固く叩き締めた土間になっていました。

北西には、円形の井戸が検出されています。

       

Img_8430 考古資料館の天井のライトが

反射してしまい見にくいのですが、

竈の内部が火床の炭で覆われ、

黒くなっています。

かなり、リアルだなあと思いながら

見ました。

        

Img_8434 竈に使用されていた石材

Img_8431 鉄釜破片

      

この浴室遺構は、16世紀後半に成立し17世紀前半に埋められたと

考えられます。

これは、織田信長の活躍した時代に該当します。

今回見つかった浴室遺構は、屋敷地の南端に位置して、主要な建物から

離れた独立した施設であったと考えられます。

この調査地の北側では、2001年度に庭園遺構が見つかっています。

そうしたことから、この浴室は日常的に使ったものでなく、

庭を望みながら入浴する、というもてなしのための施設だった可能性が

高いとされます。

     

遺構の所在地ですが、現在の、

京都市中京区両替町通姉小路上る龍池町    

ここは、    

平安時代より、代々、公家、貴族の邸宅や御所などのあったところで、

「洛中洛外図屏風」 に、二条殿の泉と池の様子が描かれていますが、

二条家の邸宅だった所です。

その後、天正4年(1576) 織田信長が京都における御座所(二条御新造)

を造営しました。

     

資料館といっしょに、実際に有った所にも行きたかったのですが、

ザンネン、時間切れとなりました。 また今度…。

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阪急長岡天神駅

2010-05-04 10:23:53 | 京都

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阪急長岡天神駅です。

天神さん近くの駅は、さすが!

構内にいっぱいのつつじが植えられていました。

電車をもう少し大きく写したかったなあ~

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長岡のたけのこ

2010-05-04 09:22:27 | 京都

Img_8310 長岡天神の境内に出ていた「焼きたけのこ」屋さん。

食べたかったなあ~(@_@。

一人で「一本下さい!」 という勇気がなくて…、

JR長岡天神駅から歩いて来る道すがら、      

「堀立てたけのこ」屋さんが、あったので帰り道に

そこで堀立てを一本買って帰ろうと思ったことも、

帰りにはもう売り切れて出来なかったし…、

結局、地の物は食べれず仕舞いでした、ザンネン (>_<)

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長岡禅塾

2010-05-04 01:24:32 | 京都

Img_8313 長岡天満宮の裏手の方に、ありました。

今まで、ちっとも気付きませんでしたが、

ほぼ70年の歴史があるそうです。

「長岡禅塾」 は、禅を通した人材育成と育英事業を

目的として設立された大学生対象の禅道場です。

塾生は、ここに寄宿して京都や大阪の大学に通います。

学部は、関係無くこの時、周りをほうきで掃除されていたかたも、経済学部だとか、

この様に門が開いていたので、入ってもいいかなと思って入りましたら、

近くを掃いておられたお坊さんに、入ることは出来ない旨を告げられ、ほんの少し

お話を聞いて、私は立ち去りました (^_^;)

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長岡天満宮其の三

2010-05-01 00:38:57 | 京都

長岡天神、八条ヶ池の周りをグルッと歩いてみました。

     

境内には、きりしまつつじの他にも沢山つつじが植えられていました。

      

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これは、白やピンクや紫の花が一本の木に咲いている様に見えるのですが…?

桜も八重のがまだ咲いていましたが、楽しめるのもあと少し。

     

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桜の枝がゆらゆら揺れて、このところ風の強い日が続きます。

     

筍料理の「錦水亭」 の前には藤棚がありました。

     

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八条ヶ池の一角に「かきつばた園」 があります。

咲き揃うときれいでしょうね。

     

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長岡天満宮 其の二

2010-05-01 00:38:04 | 京都

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 長岡天満宮 紅葉庭園「錦景苑」      

      

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錦景苑のかえで、今は新緑がきれいです。秋も楽しみですね。

       

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足元には生き生きとした杉苔が、ぎっしり!

       

こじんまりとしたお庭でした。

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長岡天満宮

2010-04-30 18:32:52 | 京都

菅原道真をお祀りする「長岡天満宮」のある辺りは

菅公が在原業平らと遊んで、詩歌、管弦を楽しまれた場所でした。

その後、大宰府に左遷される時、この地に立ち寄られ、

    

『我が魂長くこの地にとどまるべし』 

    

と名残りを惜しまれました。

その所以で没後、ここにお祀りされる事になったといいます。

     

Img_8337 社殿

     

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天神さんと言えば、「牛」 やはりこちらにも鎮座していました。

     

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また学問の神様でもあり書道上達を祈願し、1月1~3日には「奉納書初」があります。

    

Img_8332 筆塚

        

Img_8323 菅原道真公の歌碑

     

このたびは 幣もとりあへず 手向山

     紅葉のにしき 神の間にまに

                (百人一首)

      

        

       

       

境内の紅葉庭園 「錦景園」 にありました。

菅原の道真の歌といえば、

     

東風ふかば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ

     

歌からも菅公の、左遷に対する悔しさが伝わりますが、

亡くなったあと、京の都では次々と災いが起きて、菅公の祟りでは…、と恐れられ

そこから「天神信仰」 が始まったといいます。

       

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長岡天満宮の東にある池を、「八条ヶ池」 といいますが、

この池を造られた「八条宮智仁親王(はちじょうのみや としひとしんのう)」に因んで、名付けられています。

この池は、江戸時代 寛永15年(1638) 当地一帯を領した親王が池を開き、

農業用のため池として今日まで利用されて来ました。

中堤にある参道を挟んで「きりしまつつじ」が、今、燃えるような赤色に咲き見事でした。

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