長い間宵々山も宵山も来ていません。
久しぶりの宵々山では、各鉾町で「粽・ちまき」以外に
ストラップ、手拭い、巾着袋、なども売っていました。
”粽どうですかあ~” と可愛い声も聞こえてきました。
なんか様変わりした気がします。「かまきりのおみくじ」 もある位ですし。
手拭いを買うと鉾に登らせてもらえると聞いて、ついつい…。
厄除けの粽は長刀鉾は売り切れていました。
今年は「菊水鉾」の粽を買い求めました。
船鉾の手拭い 橋弁慶山の手拭い
鯉山 月鉾
芦刈山(あしかりやま)
長刀鉾の手拭い利用のタペストリー
京都の中心の通り、烏丸通や四条通、そこから鉾町に入る細い道にもズラッと、
たくさんの露店の他、地元の繊維関係のお店が、浴衣や和装小物、また、金箔のお店では、
京都を描いた画などを販売していて、それから飲食店もお客さんの呼び込みに熱心でした。
このあとも、祇園祭の行事はまだ続きます。
24日: 花笠巡行(午前十時、八坂神社を出発)、還幸祭
28日: 神輿洗い
31日: 疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)、祭りの終わり。
で、終わります。
山鉾巡行と共に、梅雨もどうやら開ける様です。
もう充分暑い日ばかりですが、いよいよギラギラ照りつける真夏の到来ですね。
「一条戻り橋」 という橋が、京都の町中の堀川に架かっています。
「堀川」は「二条城」の東側を南北に流れる川で、また、
近くには「晴明神社」 があります。
6m程の何の変哲もない小さな橋ですが、実は奇怪な伝説を秘めています。
☆ 「撰集抄」 より
平安時代の中頃、文章博士「三善清行」 が亡くなった時、その子「源蔵」 が
熊野から急ぎ帰ってみると父の葬列はこの橋の上にありました。
その時、「源蔵」 の声を聞いて父は生き返ったということです。
以来、「戻り橋」 と名付けられ、お嫁入りの時は離婚しないようにと
ここを通らないようにします。
逆に、戦争中、出征をする兵士は、無事を祈り敢えてここを通って行ったのです。
☆ 「平家物語」 より
源頼光の「四天王」の一人である、「渡辺綱」 が馬に乗って橋を通りがかった時
美しい女性に送ってほしいと頼まれ、馬に乗せると突然、鬼に化けて、
「渡辺綱」は殺されそうになりました。
そこで、鬼の腕を刀で切り落とし退散させました。
この腕を持って、「安倍晴明」 に相談したところ、鬼を呼び完全に封じ込めたとか。
晴明神社の境内にある「一條戻り橋」 これは、大正11年から平成7年まで、
堀川に架かっていたものです。左に居ますのは、「安倍晴明」 が操ったと言われる、
「式神」 の石像です。
☆ 「源平盛衰記」 より
「安倍晴明」 は戻り橋のたもとで易占いをしていたとか、
晴明は「十二神将」 を操って呪術を駆使するのですが妻が「式神」の顔を
恐れるので、戻り橋の下に「十二神将」 を封じ込めておいたといいます。
そして、必要な時に呼び起こし、吉凶を占うと「式神」 が人の口に移り
善悪を示したと書かれています。
戻り橋の架かる「一条通」は、 平安京では最北の道。
ここで、京の都の「内」 と 「外」 に分かれます。
「内」と「外」は 「この世」 と 「あの世」 にも通じ、そんなことから、
この一条通界隈には、奇々怪々な伝説がたくさんある様です。ゲゲゲ…(*_*;
”一夜虚しく 都焼け” こう言って覚えた、「1467年 応仁の乱」
京都には「西陣」 と呼ばれる地域がありますが、ここが、応仁の乱の時、
「山名宗全」 が西の陣を置いたところであり、「西陣絹織物」 の産地である事は
周知のことですが…、
先日行きました、京都考古博物館の前身は「西陣織会館」 です。
現在、「西陣織会館は」 ここから少し東南の方向にあります。
また、他に西陣には「花街 上七軒」 や 「晴明神社」 もあります。
「晴明神社」は、かの「安倍晴明」と「倉稲魂命・うがのみたまのみこと」
が祭神です。倉稲魂命は所謂、「お稲荷さん」です。
「晴明神社」 の鳥居をくぐりますと…、
「晴明井」 がありました。この井戸は、晴明の念持力で湧き出たといい、
飲むと悪病難病が治ると伝わっています。
小説やTVや映画で、「陰陽師 安倍晴明」 はとても有名になりました。
平安時代、「陰陽師」 と呼ばれる人達の役割はとても重要で、
古代中国から伝わる呪術を用いる専門家で官僚の地位にありました。
公務員だったのですね。
中でも、安倍晴明は屈指の超能力者であり、星を見て、予知をしたり、
呪術を用いて不思議を行い政治に深く関わったのです。
「天文学者」でもあったのですね。
境内には、逸話を紹介する絵と文が描かれた額が何枚も掛けられていて、
皆さん、熱心に読んでおられたので、私も一生懸命読みました (^_^;)
現在は、方除け、火災除け、病気平癒の神様として信仰されています。
私の妹が、この近くに住んでいるのですが、TVなどで、「陰陽師」として
有名になる前の神社は、「晴明さん」と呼び御近所に住む人達の
鎮守の神様的存在で、静かな所だったようです。
今は、若い方がたくさん訪れ、手を合わせ…、
(晴明桔梗紋) 五芒星
星に願いを…、
「信長の使ったお風呂」 と思われる遺跡を見に行きたい…、
と、思っていたのですが、11日、近くに行く用事がありまして捜しに行ってきました。
区域は工事中でした。残念ながら見ることはできませんでしたが、
その付近から少し北に石碑が3つありました。
両替町通り御池上がったところの↑ 「龍池小学校」、門の前に、
「此附近 二條殿址」
この地は、平安時代中期には陽明門院禎子内親王の邸宅、
その後、藤原家の邸宅、
鎌倉時代には、後鳥羽上皇の邸宅、
承久の乱後、代々二条家の邸宅として室町時代まで存続し、「二條殿」
と呼ばれていました。
「二條殿」 は泉と池(龍躍池)を中心とした庭園が有名で「洛中洛外図屏風」にも
描かれています。
その後、
天正四年(1576)に、「織田信長」 が当地に京都における御座所(二条御新造)
を造営しました。
天正七年(1579)に、信長はここを誠仁(さねひと)親王に進上し、
このことから、御所の上御所に対し「下御所」 と呼ばれました。
天正十年(1582) 「本能寺の変」 の際に信長の長子、「信忠」 はここで討ち死にし、
下御所は焼失しました。
そして、江戸時代、この地には新しく開かれた「両替町通」 に沿って、
「金座」 「銀座」 「朱座」 が置かれました。
この辺りは、高校時代の友達たちが住んでいた所で、
何度か通っていたものの、興味が無かったからか、一向に気付きませんでした (^_^;)
また、この辺を掘り返せばきっと、なんらかの遺跡が出るのだろうなあ~ (@_@)
二条陣屋、神泉苑 と見てきた後、二条城の横を北へと歩きました。
ランニングで疲れてきた時、このまっすぐに伸びる道を見ると、
ここは地獄の三丁目か?…と思いますよ (^_^;)
一周ならまだしも、『もう、一周~!!』 と言われた時には
このまま家に逃げて帰ろうかと思ったこともありました。ハア~((+_+))
しばらくすると見えてきたのは、
こんにちは~ (^o^)丿
「バンクーバーオリンピック」ではお世話になりました。
「龍馬伝」 「ウェルかめ」 「ブラタモリ」 その他色々見てますよ~
受信料も払ってますよ~ (*^^)v
手前の公園には昔、プールがありまして、私は20円持ってよく行きました。
ほんとにプール行くの好きでした。他にも2カ所あって、今日はここ、
明日はあそこ、という風に「プール荒らし」 いえいえプール遊びに
ハマっていました。 多分、色黒なのは、この時の太陽のせい (^_^;)
更に北へ、丸太町通(まるたまちどおり)を渡り、東へ、何かいい匂いが
して来ました。目的地到着です。
いい匂いはここから漂ってきています。
「佐々木酒造株式会社」
俳優の佐々木蔵之介さんのご実家です。
昔ながらの醸造方法を守ってこられた、地域に根付いた酒造のお店です。
新酒が出来た事を教える「杉玉」 がもう茶色くなって軒下に吊るされています。
よく見ますと、硝子戸の向うに「ハンチョウ」 と書かれたポスターが、
応援されているのですね。おうちの方も (^^♪
お店に一歩入ると、お酒造りの場所がすぐそこにありました。
ご近所のおじさんらしい方が、一升瓶をぶら下げて
お酒を量り売りしてもらっておられました。まさに、ご近所と密着ですね。
私は残念ながら一升瓶の空いたのを持っていなかったので、
これを買ってようやく帰路に着きました (^_^;)
「神泉苑」 は私には切っても切れない思いの所なんです。
私が生まれて育った所は「神泉苑」 から歩いて5分位の所です。
子供の頃、私はしょっちゅう友達とここへ来て遊んでいました。
「神泉苑」 は太古の昔、京都盆地が湖だった頃のなごりの池を残しています。
平安時代は大内裏のすぐ南にあって面積は12万㎡、
「禁苑」 として天皇の園遊の地とされていました。
桓武天皇は好んで訪れたらしく、水は豊かで木々が生い茂り、
色々な鳥が群れ遊ぶ楽園だったのです。
「放生池・ほうしょういけ」 といいます。
この池が、平安時代の禁苑のお池でした。今はグッと小さくなっています。
中島がありそこには「善女竜王」 が祀られています。
「善女竜王」 に関して以前ブログに書いた事があります。
平安京最古の史跡 という題で書いていました。
また、京都三大祭りのひとつ「祇園祭」の起源となったのが
ここでの疫病退散の儀式です。これも前のブログで書いていました。
鷺やアヒルや色んな鳥が池にいます。
神泉苑には「五位鷺・ごいさぎ」 という名のついた言い伝えが
ありますが、この鷺は…?五位鷺でなくアオサギですか?
神泉苑の「歳徳神・としとくしん」 です。
日本唯一の「恵方社」 で毎年向きが変わります。
今年平成22年の恵方は「西南西」 歳徳神に向かって拝むと
恵方に向かって拝めるのです。
確かに前と向きが違います。多分祠だけ動かすのでしょうね。
鳥にパンをちぎって与えておられる親子連れと居合わせ、ラッキーでした。
鷺のエサを取りに飛んでくる様子を見る事が出来ました。
それと「すずめが鳩やサギに会ったが鳩やサギに勝った」
の図です。小さな子供も声をあげて、驚いています(^^♪
ここは何度来ても懐かしく子供の頃の思い出が浮かびます。
今と違いその頃は、建物も荒れて、もっとシ~ンとしていたのですが、
それが私の中の 「神泉苑」 です。
「二条陣屋」 です。
ここは、元は寛文十年(1670)に小川家の住宅として建てられたもので、
一見すると、町屋の様ですが中はまるで、「「からくり屋敷」 です。
京都には本陣がなく、二条城や京都所司代に仕える中小の大名の
陣屋としても、また京都奉行所の公事宿(くじやど)としても利用されたので、
「吊り階段」 「隠し階段」 「武者隠し」 などの特殊な構造、設備が施され
更に、類焼防止の工夫も多く見られます。
数寄屋式、陣屋敷、防火の建築物として重要文化財に指定されています。
残念ながら、今回は修復中とのことで中には入れませんでした。
ちょっと門から中を覗きましたが、以前はこんなにきれいではなく、
家の中も薄暗い「忍者屋敷」 という表情を見せていました。
「今、ここに居たのにこんな処に出てきた!」 なんて驚くような仕掛けも
あって興味深い所でした。
また、町民のうわさですがここから二条城に抜ける地下通路があった
などと言っていた事があります。本当かどうか定かではありませんが…、
もう一度以前のままの姿を見ておきたかったです。
残念です (ToT)/~~~
尚、「二条陣屋」 は昭和19年には国宝に指定されていたのですが、
昭和25年には重要文化財と変わっています。
振り向いたら、道のどん突きに二条城の石垣が見えます。
「こんなに目と鼻の先にあった二条陣屋やし~、
秘密の地下の抜け道があったとしても、ちっともおかしない。」
なんて、遠い江戸時代に思いを馳せています。
さて、次は更に時をさかのぼり、平安時代の遺構へ、行こう~! (^_^;)
二条城の周囲は約2Km、京都御所の周囲は約4Km
数字通り、京都御所を見て回るよりは、二条城は時間がかかりません。
高校時代のクラブの練習では、特に、二条城の周囲はよくランニングしました。
これは二条城外堀にある 「南西の櫓・やぐら」 です。
元々、櫓は外堀の四隅にありましたが、度重なる大火にて焼失し、
現在は南西櫓と、南東櫓のみが残っています。
以前はこの前にある垣根はなかったと思います。
家に残ってる中学校卒業の日に友達と写した写真は松の木の真下に居ますから、
多分、堀のそばまで行って覗き込む事も出来たんだと思います。危な~(^_^;)
ここから道を挟んである学校が私の通った中学校です。
そして、今まで無かったこんな石碑が立っていて、今まで知らなかったこんな事を
知りました。
中学校のグラウンド
中学校のグラウンドの南東角に…、
よろしければ拡大出来ますので写真…
へえ~、知らなかったなあ~(@_@。
さて今度は二条城の南の方へ行ってみます。