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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

支那の金石学者たちは碑の真物たるを疑わず

2024-09-20 03:21:34 | コラムと名言
◎支那の金石学者たちは碑の真物たるを疑わず

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その四回目。
 文中、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋訳が出来た。最初に出来たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇会士〔イエズス会士〕の手に成った拉典〈ラテン〉訳である。こは多分トリゴオルトの訳であらうという(46)。その後引続いて幾多の訳文が世に公にされた。以太利のバルトリに拠ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ケ国の言葉で書かれた八種の飜訳が公にされたという⒅。中に就いて〔とりわけ〕尤も広く世間に影響したのは、セメドの飜訳と、ボイムMichel Boym(=卜彌格)の飜訳とであろう。
 セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門〈マカオ〉から一旦欧洲に帰り、千六百四十年に葡萄牙〈ポルトガル〉に到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドで葡萄牙語で出版された。その中に彼は景教碑の実際に就いて、より正確な報道を伝え、併せてこの碑の訳文を附載してある。この書は間もなく西班牙〈スペイン〉語・以太利語・仏蘭西〈フランス〉語・英語に訳出されて、広く世界に読まれた⒆。その後ち約十年を経て、ボイムは明の使命を帯び、千六百五十一年の初に澳門を出発し、その翌五十二年の末に以太利に着した。この時彼が羅馬〈ローマ〉教皇に奉呈した明の国書は、今日猶お教皇庁に保存されて居る⒇。ボイムはその羅馬滞在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、当時ローマに在住して居った、教名をアンドレアスAndreasマテウスMatthaeusという二人の支那人の助力を得て、碑の漢文を拉典語に訳出した(21)。かのキルヘルスKircherusの『支那画報』に収載されてある、景教碑の訳文は即ちこれである。
 景教碑が欧洲に紹介されると、早くその当時から碑の真偽に就いて、疑惑を挾む者があった(22)。碑文の広く知らるゝに従い、之に対する一部の学者の疑惑は益〈マスマス〉深く、中にも仏蘭西のヴォルテーアVoltaireの如きは、全くゼスイット派の宣教師達の偽作であるとて、手厳しい非難を加えて居る。十九世紀に入ると、独逸のノイマンNeumann(1850)や、仏蘭西のルナンRenan(1855)ジュリアンStanislas Julien(1855)の如き(23)、有力な東洋学者が、景教碑に関する疑惑を発表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに関する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協会時報』に掲載して居る(24)。
 之に対して景教碑の弁護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、仏蘭西のポオチエPauthier(1857)と(25)、英国のワイリWylie(1854)とである(26)。ポーチエの論文は、ノイマン・ルナン・ジュリアン諸氏の疑惑に対して、有力な弁駁を加えて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論争的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜訳に添えて、彼の豊富なる支那学の智識を傾倒して、支那の金石学者の所説を利用して、この碑の偽造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石学者、例えば顧炎武〈コ・エンブ〉とか、銭大听〈セン・タイキン〉とか、王昶〈オウ・チョウ〉とかいう人達の、この碑に関する考證を紹介し、支那の学者は一人も、この碑の真物たることを疑う者がないという事実を指摘して居る。ワイリより三十年余り後に、オクスフォルド(Oxford)大学のレッグLeggeも、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の学者も、この碑の偽物たることを明言したる者がないというて居る(27)。〈291~293ページ〉【以下、次回】
 
(46) Havret; La Stèle Chrétienne. II, p. 326. III, p. 67.
⒅ Havret; La Stèle Chrétienne. II, pp. 32, 325.
⒆ Havret; Ibid. II, p. 31.
⒇ 箕作〔元八〕・田中〔義成〕二氏「明の王太后より羅馬法皇に贈りし諭文」(明治二十五年〔1892〕十二月号『史学雑誌』所収)拙稿「明の龐天壽より羅馬法皇に送呈せし文書」(明治三十年〔1897〕三月号五月号『史学雑誌』所収)
(21) Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 15. Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien. p. 9.
(22) Kirchere; La Chine Illustrée. p. 1.
(23) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne de Sin-gan-fou. pp. 7, 14-21.
(24) Neumann; Die erdichtete Inschrift von Singnan Fu. (Zeitschrift d. D. M. Gesellschaft. IV).
(25) Pauthier; De l'Authenticité de l'Inscription Nestorienne.
(26) Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. (Journal of the American Oriental Society. V).
(27) Legge; The Nestorian Monument of Hsi-an Fu. p. 37.

 註の番号に乱れがあるが、これは、校正の段階で、註(46)を追加したことによるものであろう。

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景教碑は、大秦寺の境内に埋められた

2024-09-19 00:40:05 | コラムと名言
◎景教碑は、大秦寺の境内に埋められた

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その三回目。
 文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 さて鳳翔府と杭州府とは、相距る〈アイヘダツル〉こと約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機関の不十分な状態の下に、張賡虞が態々〈ワザワザ〉西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相当の時日を経過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ケ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年〔1625〕の四月であった。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。従って陽瑪諾の天啓三年〔1623〕説も、一概に否定し難い様に思う。併しこは重大なる問題で、軽々には論断を下し難い。私は単に一つの疑問というに止める。序〈ツイデ〉ながら私がこの疑問を『藝文』に発表した数年の後ち、曩に紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲読した所が、アヴレも亦この点に就いては、私と略所見を同く〈オナジク〉せることを発見して⑾、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
 次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に盩厔【チウシツ】説もある。景教碑はもと西安の西南百六十支那里に在る、盩厔県地方で発掘せられて後ち、西安の西郊の金勝寺に移されたという。この説は在支宣教師の中で、一番最初にこの碑を実見したトルゴオルトの初伝で、早く一部の人達に信用されて居った。千六百十三年に出版された、以太利のバルトリBartoliの『支那』を始め、その他の信憑〈シンピョウ〉すべき学者の記録の中にも、この説を載せてあるという⑿。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞〈チョブン〉して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英国の宣教師のモウルMouleや⒀、我が佐伯好郎氏なども⒁、同様にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思う。左に簡単にその理由を述べる。
(第一)この景教碑文を作った大秦寺の僧景浄は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舎城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある⒂。景浄やイザドブジドの関係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在った大秦寺の境内に建設されたもので、盩厔地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二)唐時代に盩厔地方に、大秦寺の存在したという何等の證拠がない。その盩厔地方に、景教碑の建設される筈がないではない歟〈カ〉。
(第三)もと長安に建設された景教碑が、ある時代に盩厔に移転されたとは、到底考えられない。又かゝる移転説を可能ならしむる、何等の證拠も理由もない。
(第四)景教碑を尤も早く親覩した張賡虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、盩厔の出土を伝えて居らぬ。
(第五)景教碑の発掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、学者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の旧址に当る⒃。
(第六)景教碑が盩厔地方から出土する訳は、万々有り得べからざることであるが、仮に一部の人達の信ずる如く盩厔で発掘されて、西安に移転されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであろう歟。今日の金勝寺は、大体に於て唐代の大秦寺の所在地に該当するが、そは学者の研究を待って始めて知られたことで、明末一般の人々が、かゝる智識を有する筈がない。漫然移転された景教碑が、唐代の大秦寺の旧址に安置される結果となったとは、余りに不思議ではあるまい歟。
 要するに此等の事情は、景教碑の盩厔出土説を不可能ならしめ、その反対に、長安出土説の確実を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその当初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋没し、その大秦寺の旧址に当る、西安の西郊の金勝寺の境内から発掘され、大体に於て終始その位置を移動せざりしものと断定する外ない⒄。〈287~291ページ〉【以下、次回】

⑾ Havret; Ibid. II, p.59.
⑿ Havret; Ibid. II, pp. 34-37, 70-71.
⒀ Moule; The Christian Monument at Hsi-an fu. p. 77 (Journal of N.C.B.R.A.S, 1910).
⒁ Saeki; The Nestorian Monument in China. pp. 17-19.
⒂ Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 100 (Mémoire de l'Académie Royale des Science etc. de Belgique. Tome Liii).
⒃ 清の陶保廉の『辛卯侍行記』巻三の四枚十枚、『咸寧県志』巻三の四十五枚。
⒄ Pelliot; Chrétiens d'Asie Central et d'Extrême Orient. p. 625.

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その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した

2024-09-18 01:05:56 | コラムと名言
◎その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その二回目。
 文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に当る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する余り、仏教を始め諸外教に対して激烈な圧制を加えその会昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアステルZarathustra教(=祆教〈ケンキョウ〉)の僧侶を併せて、二千余人或は三千余人を還俗〈ゲンゾク〉せしめ、外国出身の僧侶は、多くその本国へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在った大秦寺も廃毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想う。勿論当時の記録に、景教碑の打ち倒された事実や年代が明記されてはないが、爾く〈シカク〉想像するより外に、適当な解釈を下すことが出来ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人為の種々の事由によって、磨滅毀損を受ける筈であるが、この景教碑のみは、不思議に碑面の字画に格別の損滅がない。こはこの碑の建立後、久しからずして地下に埋没して、天然や人為の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する様である。兎に角宋・元時代の記録を通じて、この景教碑のことが一切見当らぬ。
 所が明末になって、西暦十七世紀の初半に、偶然の出来事で、この景教碑が土中から発掘されて、世間に現われて来た。この古碑出土の状況を、尤も早く尤も詳しく世間に通告した、セメドSemedoといふ宣教師の作った『支那通史』には、大要左の如く記載してある⑻。
  《千六百二十五年(明の天啓五年)に、陝西省の首府の西安府の附近で、支那職工達が建物を新築する為に、礎石を置く目的で、地面を掘り下げた。所が彼等は{偶然}一石碑を掘り当てた。{碑の}長さは九empan(手尺)以上、寛さは四 empan 以上、厚さは一 empan 以上に及ぶ。碑の頭部に当るべき一端は、ピラミッド形をなして居る。ピラミッドの寛さは、底部で一empan 以上、高さは二 empan 以上あって、その表面に見事なる十字架が刻まれて、その形は{印度の}メリアプォルMeliapor町に在る、聖トーマスSt. Thomasの墓の彫刻のそれによく類似して居る。十字架は雲形{の彫刻}に囲まれ、その下層には三行に、各行三個の大漢字が刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のもので、極めて明瞭に刻まれてある。碑の全面にも同種類の文字が刻まれ、側面にも文字は刻まれてあるが、それは種類の異った外国字で、誰人も読むことが出来ぬ。 
 この注意すべき古碑が出土すると、職工達は直にその由を官衙に上申した。知府が現場に出馬して、古碑を検閲した後ち、之を見事な土台の上に安置し、風雨の迫害を保護し、同時に諸人の観覧を自由にすべく、碑の上に碑亭を構えた。珍奇な古碑の出土の評判が四方に拡まると、その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した。丁度この頃は、キリスト教が可なり支那人の間に知られて居ったから、{キリスト教に関する若干の知識を有する}さる紳士は、この古碑を見て、キリスト教に関係あるものと推測して、{浙江省の}杭州府に在住する彼の友人で、教名を Leo{n}といふ、キリスト教信者の官吏の手許へ、その碑拓一枚を送り届けた。この碑拓は、当時杭州府在住の宣教師達に、想像以上の大なる歓喜を齎らした。》
 このセメドは漢名を魯徳照という。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、実地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。当時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルトNicholas Trigault(=金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の実物を親覩〈シント〉した人であるから信用も厚く、従って欧米の学界では、景教碑出土の状況に関しては、セメドの記事が権威と認められて、これに異議を挟む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一応の査覈〈サカク〉を要する。先づ出土年代に関しては、セメドの所伝以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一)清初の銭謙益の景教考(『牧齋有学集』巻四十四所収)――多くの学者はワイリやアヴレさへも、この銭謙益を銭大昕と間違えて居る――には、明の万暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を発掘したと記してある⑼。
(第二)清初の林侗の『来齋金石考略』巻下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(=金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を発見したと伝えて居る。
(第三)明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の発掘の次第を述べて、
  《大明天啓三年(西暦一六二三)席中官命啓土。于敗墻下獲之。》
と記してある。
 以上三説の中、第一第二の所伝は、年代も漠然で、採るに足らぬが、独り第三の陽瑪諾の所伝のみは、幾分の注意を価する。陽瑪諾は洋名をディアズEmmanuel Diazといい、景教碑出土の当時、浙江省杭州府に居って、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釈して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑われるが、併し当時耶蘇会の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允付梓とあって、実際この『唐景教碑頌正詮』――私の手許にあるのは、光緒四年の重鐫〈ジュウセン〉ではあるが――も、陽瑪諾の同会のフェルレーラGaspar Ferreira(=費奇規)、アレニJulius Aleni(=艾儒略)、モンテーロJohannes Monteiro(=孟儒望)の訂閲を経て出版したもので、容易に差誤あるべしとは思はれぬ。
 尚お又明の李之藻の「讀景教碑書後」といふ一篇がある。こは『唐景教碑頌正詮』の中にも、『方外焚書』などの中にも載せられて居る。この李之藻は、かの有名なる徐光啓と相並んで、当時の耶蘇信徒中の大立者〈オオダテモノ〉であった。彼の教名を Leon といい、当時の洋人の記録には、Leon Li として知られて居る。上に紹介したセメドの記事に、杭州府在住の官吏で教名Leo{n}とあるのは、即ちこの李之藻である。彼の読景教碑書後に、
  《廬居霊竺間(杭州府の霊隠寺と天竺寺をいう)。岐陽同志張賡虞恵寄唐碑一幅。曰邇者【チカゴロ】長安中掘地所得。名曰景教流行中国碑頌。此教未之前聞。其即利氏西泰(=利馬竇)所伝聖教乎。余読之良然。》
と書いてある。
 この張賡虞は教名を Paul といい、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といえば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面会して、キリスト教に就いての智識をもって居った。景教碑出土の噂が四方に伝ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を検閲した。当時陝西には一人の宣教師も滞在せなかった故、彼はキリスト教に関係ある人々の中で、尤も早く景教碑の実物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に関する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張賡虞を指すのである。張賡虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとって、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の読景教碑書後の終末に、
  《天啓五年歳在旃蒙赤奮若。日纏参初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。》
とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。〈281~287ページ〉【以下、次回】

⑻  Semedo; The History of China. p. 157.
⑼  神田(喜一郎)学士「或る支那学者の景教考に就て」(大正十三年〔1924〕八月号『歴史と地理』所収)
⑽  Havret; La Stèle Chrétienne II partie, pp. 37. 39.

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桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む

2024-09-17 00:04:16 | コラムと名言
◎桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む

 バッヂ博士著『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』の紹介は、まだ終わったわけではない。だが、同書から、いったん離れ、「大秦景教流行中国碑」に話題を振りたい。
 この石碑については、東洋史の碩学・桑原隲蔵(くわばら・じつぞう、1871~1931)に、「大秦景教流行中国碑に就いて」という著名な論文がある。本日以降、この論文を紹介してゆきたい。典拠は、桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)所収の同論文である。
 引用にあたっては、原文を重視したが、漢字および仮名づかいは、現代のものに直してある。また、註は、引用部分に対応するものを、その都度、紹介することにした。〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

     大秦景教流行中国碑に就いて

 私は明治四十三年〔1910〕四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中国碑』という論文を発表した。そののち大正十二年〔1923〕の六月に、景教碑の模型の京都帝国大学到着を記念すべく開かれた史学研究会で、「大秦景教流行中国碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、曩〈サキ〉の論文と講演とを一纏めにして、新に作ったものである。
 ――――――――――――
 茲に紹介する景教碑、詳しくいえば大秦景教流行中国碑は、唐時代に建設されたもので、その当時支那に流行した、キリスト教の一派のネストルNestor教に関する古碑で、今日猶お支那の陝西省の西安府(民国の関中道長安県)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と称せられたが、又ミシアMissiah(救世主の意味)教とも称せられた。支那の記録にはミシアという言葉に、彌尸訶(『貞元新定釈教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中国碑)または彌失訶(『仏祖歴代通載』)などの漢字を充てゝ居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に関する古碑もある。猶太〈ユダヤ〉教に関する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い点から観ても、内容の豊富なる点から観ても、文章や文字の優秀な点から観ても、すべての点に於て、マホメット教関係の古碑や、猶太教関係の古碑に卓越して居る。
 兎に角〈トニカク〉古代のキリスト教関係の古碑というので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となって居る。明末に発掘されて以来、今日までこの古碑の歴史や解釈に関する著書や論文は、殆ど汗牛充棟という有様で、欧米方面の文献は、大略ヘレルHellerの『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り⑴、コルヂエCordierの『支那書史』には、一層網羅されて居る⑵。支那方面の文献は、清の楊栄鋕の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリWylieの「西安府のネストル教碑」という論文中に備って居る⑶。かく関係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證拠と思う。
 抑も〈ソモソモ〉景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウスNestoriusの唱え出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一体に関して、新しい見解を主張した。彼の主張に拠ると、キリストは神性を具えた一個の人間に過ぎぬ。従ってキリストの母のマリアを、従来の如く Theotokos(神の母)と称するのを排して、Christotokos(キリストの母)と称すべしと主張する⑷。西暦四百三十一年に開かれた、エフェススEphesusの宗教会議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西亜細亜地方に流行し、尋で〈ツイデ〉中央アジアにも伝播〈デンパ〉した⑸。唐が支那を統一して後ち、塞外〈サクガイ〉経略に手を着け、その国威が西域に振うと、その太宗の貞観〈ジョウガン〉九年(西暦六三五)に、阿羅本〔Araham〕といふ者が始めて景教を支那に伝えた。爾来景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に当る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、当時の国都長安に在った、大秦寺と称するネストル教の寺院の僧の景浄、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舎城、即ちバルクBalkhから来て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯〈イシ〉(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)という人の出資によって、この記念碑を建て⑹、ネストル教の教義や、その支那伝来の歴史を書き誌したものである。
 碑は黒色の石灰石より成り、その高さは台の亀趺〈キフ〉を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチという。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロEstrangeloと呼ばれる、当時主として伝道の場合に使用された、古体のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大体に於て景教に関係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相当する漢名を添えてある。
 碑に刻された漢文の解釈は、可なり六ケ敷しい〈ムツカシイ〉。今から二十余年前に、上海在住のゼスイット派〔イエズス会派〕の宣教師のアヴレHavretが公にした碑文の解釈は、尤も傑出して居るが⑺、それは未完成でもあり、又不十分の点がないでもない。併し大体から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になって居る。
(第一) 天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。
(第二) 唐の太宗の時、阿羅本が景教の経像を齎らして長安に来朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てゝ、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗〈エイソウ〉時代にかけて、景教の法運やゝ不振に陥ったこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益〈マスマス〉隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上来三段の記事と、略〈ホボ〉同様のことを頌したもの。
されど碑文の解釈は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の来歴を紹介するに在る。〈277~281ページ〉【以下、次回】

⑴ Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438-441 (Graf Széchenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).
⑵ Cordier; Bibliotheca Sinica. Volume II, Col. 772-781. Ibid. Supple'ment, Col. 3562-3564.
⑶ Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).
⑷ Mosheim; Ecclesiastical History. Vol. I, p.366.
⑸ Barthold; Zur Geschichte des Christentums in Mittle Asien. s. 22 flg.
⑹ Pelliot; Chrétiens d'Asie Centrale et d'Extrême Orient. p. 625 (T'oung Pao〔通報〕. 1914).
⑺  Havret; La Stèle Chrétienne de Sin-gan fou. III partie.

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十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

2024-09-16 01:43:07 | コラムと名言
◎十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある

 バッヂ博士著・佐伯好郎訳補『元主忽必烈が欧州に派遣したる景教僧の旅行誌』(春秋社松柏館、1943)の紹介に戻る。
 本書には、バッヂ博士による「概論」というものが置かれている。これは、197ページに及ぶ詳細にして周到な解説で、全20節からなっている。最後の第20節は、「支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑」と題されている。本日は、同節の全文を紹介してみたい。

  (附記第二)
    二〇 支那陝西省西安府大秦景教流行中國碑


 西安府に在る唐代景教流行中國碑は支那に於ける景教の興亡盛衰の歴史を研究するに当つて欠くべからざるものである。故に茲にこの碑文に関して附録として稍〻詳しく述べる所以である。この碑文に関した著書も頗る多い。其の最も興味あるものは一八九五年上海及び巴里で出版せられたエイチ・アーブレー師(H. Havret)の「西安府景教碑」(La Stèle Chrétienne de Si-ngan-fou Paris,1895)である。漢文並にシリヤ文の各部の写真版が一冊となりこれに仏語訳があり且つ毎章に有益な記述で充たされて居る。第三図と第十一図とはアーブレー師の著書から転載したものである。一九一六年には東京の佐伯〔好郎〕教授が「支那に於ける景教碑」(The Nestorian Monument in China)と題して此の碑文の歴史と本文の活字版とを出版し之に英語訳と難解の個所に幾多の有益な註解とを施したものを出版した。此の碑は初め崇聖寺と言ひ(旧名崇仁寺)後に金勝寺となつた寺の境内に在つた。而して崇仁寺は北緯三十四度十七分東経百九度三十分に在る陝西省西安城外の西郊に在る。一九〇七年六月フリツ・フオン・ホルム(何楽模)博士は百難を排して此の有名な石碑を此の地方の官憲から購求せんが為に西安府に行つた。然るに此の事が陝西省総督の耳に入るや直〈スグ〉に景教碑は移された。即ち西紀一六二五年に発見せられてから後間もなく安置せられてあつた此の金勝寺(旧名崇聖寺)から漢、唐、宋の古碑の保存せられてゐる『碑林』に移された。ホルム博士は此の景教碑の購入には失敗したが其の正確なる模造碑【レプリカ】を西安の現場で製作することには成功した。而してこの模造碑は米国に輸送せられ一九〇八年六月十四日ニユー・ヨーク『美術博物館』(The Metropolitan Museum of Art)に安置せられた。此の碑の石材は黒色にて半粒状鮞状〈ジジョウ〉石炭岩であつて陝西省富平県の石坑から切割り出されたるものである。此の石碑の大サは高さ九呎〈フィート〉強幅三呎六吋厚さ廿二吋であつて其の重量は約二噸である。碑頭は二匹の仏教的の『蚊龍』の意匠の彫刻をもつて飾られて居る。此の『蚊龍の飾』の中央に宝珠がある。此の宝珠の直下に二線併行の三角形がある。而して(一)白雲が彫刻せられたる上に安置せられた十字架(二) 蓮台があり(三)花咲く樹木の枝が左右に一本づゝある。(第十一図参照)十字架は基督教を示し白雲は大雲寺の称号で明なるが如く回教を示し蓮台は仏教を示すことは疑なきところである。但だ〈タダ〉左右に在る樹木の一枝は何物を代表するものとなすべきか少しく解釈に苦しむところである。此の景教碑に在る十字架はマルク十字架の一変形であつて景教僧が西欧教会、就中、東羅馬帝国の首府の建築物に於て浮彫にせられる十字架に倣つたものであると思ふ。此の景教の十字架をかの聖・多黙墓の十字架に比較すれば其の相違に著しいものゝあることを発見する。
 それよりも更に興味あるものは一九二八年四月にエイ・シー・モール(A. C. Moule)氏が「ローヤル・アジアチツク雑誌」で発表した二個の十字架である。(モール氏著「一五五〇年以前の支那基督教」八七頁参照)此の二個は北京附近の十字寺(阿北省房山県三盆山)で発見せられたものである。此の十字寺はモール氏の説に拠れば掃馬法師が七年間修業して居た景教の寺院であるといふことである。其の一個は本堂の前に在つた壇の一隅に在つて他の一個は東南の一隅に在つた。其れにはシリヤ語があつた。之はぺシト訳の聖書の本文から引用したもので『汝此に向ひ此に在つて望め』(詩三十四篇五)といふ訳である。併し希伯来〈ヘブライ〉語の本文に拠れば『彼等は主を仰ぎのぞみて光を被りたれば彼等の顔は恥あらんことな』(詩三四篇五)といふ文句に相当するのである。是等の二個の十字架はモール氏の云ふところに拠れば同一形ではない。例へば十字架の横の桁に何等の飾もなく且つ両端が尖つて居る。また本図(一)は一六三八年に南支閩〈ビン〉の泉州の水陸寺で発見せられたものである。(二)は閩の泉州府城仁風門外一哩の地に在る東湖畔で発見せられたものである。前者は蓮台の上に在る十字架であつて後者は白雲の中から出現して居る十字架である。其の他の支那から出た十字架の説明に関しては前記モール氏の次の著書を参照するがよい。(本書附『支那の景教に就いて』参照)
 (一)一九一九年アール・ジヨンストン氏が北京の西南三十哩許の山地に在る房山県附近に在る十字寺といふ荒廃した一小寺で発見したものである。
 (二)一六一九年に閩泉州南邑西山で発見せられたものである。それが二六三八年に当時の基督教徒の手に移つたものである。
 (三)三角形の下に十字架及び白雲並に蓮台等が彫刻せられ其の下に大字で「大秦景教流行中國碑」とある。即ち大秦から伝来した景教か支那即ち中国に流行したといふことを記念する石碑である。其の本文は一千九百字の漢文と五十余のシリヤ語文と七十二名の景教僧の名前がエストランゲラといふシリヤ文字で書かれてある。
 此の碑文の歴史的部分が非常に重用である。先づ第一に阿羅本といふ者の一団体が大秦即シリヤ猶太亜と云ふ処から貞観九年即ち西紀六三五年に長安に到着した。而して唐の太宗は宰臣房玄齢を使はし儀杖を惣へて之を西郊に賓迎せしめた。また阿羅本が将来したる景教の経典は太宗が書殿に於て飜訳せしめられ、道を禁闈〈キンイ〉に問ひたる後深く景教の正真を知つて特に之が伝授を許し貞観十二年(西紀六三八年)には詔勅を出して『其の教旨を詳〈ツマビラカ〉にするに玄妙無為である。其の元宗を観るに生成立要である。辞に繁説がなく理に忘筌がある。物を済し人を利するを以つて宜しく天下に行はしむべし』とあつた。而して大秦寺は建てられ先づ二十一人の僧侶が任命せられた。高宗(西紀六五〇年~六五三年)は諸州に景教寺を置き阿羅本を崇めて鎮国大法主となした。玄宗至道皇帝(西紀七一二~七五五年)は寧国等五王をして親しく福宇に臨み壇場を築かしめた。又、粛宗文明皇帝(西紀七五六年~六二年)は霊武並に五郡の土地に於て重ねて景教の寺院を建てた。而して代宗文武皇帝(西紀七六三年~七七九年)は聖運を恢張し無為に従事し景衆を盛〈サカン〉ならしめたのである。
 尚ほ末文に大唐建中二年即ち西紀七八一年に景教の法主寧恕が束方の景衆を統治して居た時代とある。寧恕とは景教の法主へナン・イシヨ第二世の漢名である。(訳補者曰ふ。其の意味は「イエスの仁慈」即ち寧恕といふ漢字に該当するのである)この法主は西紀七七四年から同七八〇年まで景教法主の位に在つた。即ち此の石碑が建立せられ其の除幕式があつた建中二年一月(西紀七八一年)には永眠して居た。併し陸上交通の不便であつた当時に於ては法主の訃音〈フイン〉が此の石碑彫刻の完成するまでには支那に達しなかつたのであると思はれる。シリヤ語の文章に拠ればトルキスタンの一市へルクアから来た僧でミリオの子であるイヅブジツドと云ふクムダン(関内)の僧が希臘〈ギリシャ〉年号の一〇九二年(西紀七八一年)に建立したとある。尚ほ其の他に七十二名の景教僧の名がシリヤ文字と漢字とで対立してある。此の碑石か発掘せられた場所に関しては諸説が紛々として一定して居ないが佐伯教授は一六二五年頃に西安盩厔間の一地点に於て此の石が発掘せられたものと断定して居る。発掘者又は発見者の姓名は詳でない。モール氏は碑石は最初盩厔に建てられたものであつたが後に西安の西郊に移されたものであると云つて居る。〈189~197ページ〉

 この碑の最上部は、△形の囲みがあって、そこに十字架などが描かれている。そのすぐ下には、3×3の大きなマスがあって、そこにタテ書きで、
  大秦景
  教流行
  中國碑
と書かれている。教は「敎」でなく「教」、國は、国でなく「國」である。
 バッヂ博士は、この一文において、「東京の佐伯教授」に言及している。佐伯好郎は、1916年(大正5)に、ロンドンのキリスト教知識促進協会(Society for Promoting Christian Knowledge)から、『支那に於ける景教碑』という本(英文)を刊行していた。ウィキペディア「佐伯好郎」の項によれば、佐伯は、1913(大正2)から熊本で、第五高等学校の教授を務めていた。1916年以降は、東京高等工業学校で教鞭を執っていたというが、同校の教授だったか否かは不明。
 なお、文中、「儀杖を惣へて」というところがあるが、「惣へ」の読みは不明。「惣」は「総」と同字なので、あるいは「すべ」(総べ)か。

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