不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

まさか宣告はしても、殺しはすまじ(徳冨蘆花)

2015-12-26 06:20:36 | コラムと名言

◎まさか宣告はしても、殺しはすまじ(徳冨蘆花)

 先日、文芸評論家・野田宇太郎(一九〇九~一九八四)の論文「蘆花と幸徳事件」(一九五七)を読んだ。この論文は、野田宇太郎の文業の中でも、かなり重要な位置を占めるものではないだろうか。
 この論文において、野田は、「幸徳事件に抽象的な文学作品の上だけでなしに、実際に行動しえたのは、やはり蘆花一人であった」と指摘している。これは見逃せない指摘だが、それ以上に重要なのは、ここで野田が、みずから発掘した「新資料」を披露した上で、そのことを指摘しているという事実である。
 まず、論文の冒頭部分を紹介してみよう。

蘆 花 と 幸 徳 事 件
 (新資料をめぐって)    野 田 宇 太 郎
 はじめに別掲の資料について述べよう。
 所謂大逆事件と称された幸徳事件が発覚したのは明治四十三年〔一九一〇〕五月で、裁判は同年十二月十日から始まり二十九日に終結し、この事件に関係ある社会主義者として二十六名が起訴され、うち二名が有期刑となった他は、幸徳秋水〈コウトク・シュウスイ〉以下二十四名が死刑の判決をうけた。そして明治四十四年〔一九一一〕一月二十日付を以て死刑判決のうち半数の十二名が天皇大赦の美名のもとに死一等を減ぜられ無期刑となった。
〔資料一〕この徳冨蘆花〈トクトミ・ロカ〉の書簡は十二名が無期刑となったのはよろこばしいが、あとの十二名も何とか死刑をのがれさせたいと言ふ希ひ〈ネガイ〉から筆をとったもので、社会主義を徴底的に撲滅しようとする当時の桂〔太郎〕内閣だから、大赦が発表された以上、死刑も間もなく執行されるに違いないと言ふ推断から、蘆花は数日思ひ悩んだ末にともかくも最後の手段として天皇に直接訴へる他はないと考えて〔資料二〕の「天皇陛下に願ひ奉る」を書き、それを発表する手段として東京朝日新聞に掲載することにした。特に朝日新聞としたのは、同紙主筆に池辺三山(吉太郎)がゐたからで、蘆花は三山と同郷(熊本)であったとは言へ、未だ一面識もなかったが、かねてから間接的に三山の人格に信頼するものがあって、〔資料二〕の重要原稿を同封した池辺三山宛の〔資料一〕の書簡となったものである。
 この時代には蘆花は日記をのこしてゐない。その代りに未発表ながら夫人愛子の日記がのこってゐて(蘆花公園保管)、蘆花の動きを割合に徴妙にとらへてゐる。いよいよ幸徳事件の判決がせまってゐた明治四十四年一月十三日(金曜日)をひらくと「無政府主義者の判決言渡しも近づきぬ。如何になるべきか。どふも死刑になりさうだが陛下より大赦あらばいいがなあ、とは吾夫の情! そもいかになりゆくべきぞ。主魁をめざされし人は、助かりさうにもなし。」とあり、また同月十九日には「昼過〈ヒルスギ〉新聞来る。書斎より吾夫、オヽイとよびたまふに、何事ぞといそぎゆかんとすれば、つゞけて二四人殺すさうだ! 書斎によれば、いつもいつも此事につき語り気をもみしが、何事ぞ二四人の死刑宣告!! まさか宣告はしても、殺しはすまじ。(中略)無政府主義につき吾夫と論評す。どふも同主義者の人格に心ひかる点を我等は知らず。為めに全然同情も出来ざれど、政府も悧巧なれば殺しはせじ、否、殺させ度〈タク〉なし、と吾夫のたまふ。」と記されてゐる。【以下、次回】

 野田が発掘したという資料のうち、最も重要なのは〔資料〕の「天皇陛下に願ひ奉る」という文章であろう。これは、すでにいろいろな形で紹介されているが、野田の論文では、その影印と活字に直したものとが、併せて紹介されている。本日は、これを、原文(毛筆、便箋二葉)の態様に近い形で(改行を再現する形で)、紹介してみることにする。


資料二、資料一書簡に同封されたる原稿〕
 天皇陛下に願ひ奉る 
     徳冨健次郎
乍畏奉申上候
今度幸徳伝次郎等二十四名の者共不届千
万なる事仕出し御思召の程も奉恐入候然
るを天恩如海十二名の者共に死減一等の
恩命を垂れさせられ誠に無勿体儀に奉存
候御恩に狃れ甘へ申す様に候得共此上の御
願には何卒元凶と目せらるゝ幸徳等十二名
の者共をも御垂憐あらせられ他の十二名同様に御恩
典の御沙汰被為下度伏して奉希上候彼
等も亦陛下の赤子元来火を放ち人を殺すたゞ
の賊徒には無之平素世の為人の為にと心が
け居候者共にて此度の不心得も一は有司共が忠
義立のあまり彼等を窘め過ぎ候より彼等
もヤケに相成候意味も有之大御親の御
仁慈の程も知らせず親殺しの企したる鬼
子として打殺し候は如何にも残念に奉存候
何卒彼等に今一度静に反省改悟の機会


を御与へ遊ばされ度切に奉祈候斯く奉願候者
は私一人に限り不申候あまりの恐多きに申上兼
居候者に御座候成る事ならば御前近く参上
し心腹の事共言上致度候得共野渡無
人宮禁咫尺千里の如く徒に足ずり致候の
み時機已に迫り候間不躾ながら斯くは遠方
より申上候願はくは大空の広き御心もて天
つ日の照らして隈なき如く幸徳等十二名をも
御宥免あらんことを謹んで奉願候叩頭百

*このブログの人気記事 2015・12・26(4・8位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大佛次郎『ドレフュス事件』は、なぜ龍頭蛇尾なのか

2015-12-25 06:45:22 | コラムと名言

◎大佛次郎『ドレフュス事件』は、なぜ龍頭蛇尾なのか

 国立国会図書館の検索システムで、「ドレフュス事件」を検索したところ、一九三一年に発表された書評がヒットした。三田史学会が発行している『史学』第一〇巻第一号(一九三一年三月)に載った「ドレフユス事件」で、天人社から出された単行本(一九三〇)に対する書評である。評者は、西洋史学者の間崎万里〈マザキ・マサト〉(一八八八~一九六四)である。
 さっそく引用してみよう。

 ドレフユス事件(大佛次郎著 天人社刊行)
 古くはジャンヌ・ダルクの出現、近くはレオン・ドーデの事件があつた。もちろん彼と是とは全く別個の事件であるけれども、一脈相通ずる仏人〔フランス人〕の個性を、又その国民性を之〈コレ〉と関連して思ひ浮ばしめるものがある様に思はれる。仏国〔フランス〕ならではと思はれる斯様〈カヨウ〉な事件の中にブーランジェー事件に次いで、最も世間を騒がせたドレイフユス事件があつた。
 砲兵大尉ドレイフユスにからまる仏国の軍機漏洩事件は事もと陸軍部内の一小事件であつて軍法会議を以て決すれば足るだけのものであつたが、アルサス生れの彼が、欧洲人の又保守主義者の忌み嫌へるユダヤ人であつた処から、当時仏国内に盛んに唱へられたるドリュモン一派のユダヤ人排斥運動は彼に対して冤罪を強ゆるの姿となり、かくして雪冤〔冤罪を晴らすこと〕を求むる正義のための再審運動は生ずるに至り、ローロール〔L'Aurore〕紙上に於ける小説家エミール・ゾーラの仏国大統領への目覚しき公開状は一層その勢〈イキオイ〉を昂め〈タカメ〉た。世界大戦に際し戦勝内閣の首相として又パリ会議の議長として仏国を双肩に荷つて〈ニナッテ〉立つた政界の名士今は亡き(一九二九年十一月二十四日没)クレマンソー「虎」の如きは人権擁護連盟(Ligue francaise pour la defense des droits de l'homme et du citoyen)を組織し、社会主義者の大立物ジョーレス、考証史学の大家ガブリエル・モノー、小説家アナトール・フランスの如きもこの運動に加はつた。彼の〈カノ〉ソルボンヌに於けるバン・ルーヴェ教授をして学界を退いて政界に身を投ぜしめ、後ち幾度か陸相として台閣に列し又自からも首相として内閣を組織するの運命に立至らしめたのも又この事件なのであつた。ドレイフユスを罪に陥れた国粋主義者の陸軍々閥は軍部の威厳のために飽く迄〈アクマデ〉も初説をとつて動かず、ために本問題は仏国を再審論者と非再審論者の二個の陣営に分ち、後者はカトリック保守派、国民主義者、僧侶の大部分、殆どすべての陸軍将校を含み、彼等はユダヤ人とその後援者を以て反逆者組合(Syndicat de trahison)から資金を仰げりとなすドレイフユス派に対抗して祖国の擁護者を以て任じ、l'honneur de l'armee et le respect de la chose jugee!〔軍隊の名誉と判決の尊重〕を唱へえて、手段を撰ばず戦つたのである。他方再審派はLa verite en marche! 〔前進する真実〕てふゾーラの公開状中の文句より出でたるLa justice et la verite! 〔正義と真実〕のスローガンの下〈モト〉に争ひ、権利の濫用と裁判の拒否を非議し、sabre et goupillon!〔軍隊と教会〕に向つて戦かひ、ゾーラの裁判に際しては法廷の前に於て前者が、参謀本部と真の犯人エステラージーのために、Vive l'armee! Vive la France! 〔軍隊万歳、フランス万歳〕を唱ふれば、後者はVive Zola! Vive Repablique! 〔ゾラ万歳、共和国万歳〕を以て応酬し、宛然〈エンゼン〉敵者の対立せるが如くであつて紛糾錯雑〈フンキュウサクザツ〉せる諸要素が国を挙げて騒擾〈ソウジョウ〉したのみならず、又遂に世界の問題とすらもなるに至つたのであつた。
 一八九四年ドレイフユス裁判の事あつてより、一九〇六年七月、仏国大審院がレンヌの再審軍法会議の判決を無条件に破毀し、彼の軍籍を復し位階を進めて少佐に任じ、レジョンドノール騎士章を授与し、ピカール亦前判決を取消され軍籍を復し、次いで同年十月陸軍大臣となり、既に一九〇二年に死せるゾーラも国葬を以て名誉のパンテオンに合祠せられて、全く事件の落着を見るに至るまで前後十有二年の間、之がために幾多の内閣を仆し〈タオシ〉連続陸相を罷免し仏国政界稀有なる事件の系列は見られたのである。こは十九世紀末に於ける漸次共和政権確立運動の優勝に至る途上、前のブランジェー事件から後の政教分離運動への中間の一過程であつて、仏国政治史上頗る〈スコブル〉重要なる事件なのであつた。之によりて王政は全く破壊せられて不信用となり、共和諸派は社会党と共に緊密なるブロックを形成し、多年国会に於ける多数を制して共和政治を確立し、軍部をもその配下に収め、明白なる反教主義の法律を制定せしむるに至つたからである。
 本書は新世界叢書中の一篇〔第二篇〕をなす一つの小説に過ぎないけれども、大佛次郎氏の叙述は、事件の経過と波瀾重畳〈ハランチョウジョウ〉せるこの大事件の幾多のシーンを比較的正確に又鮮かに描出してゐる。史実にのみ没頭せる史学者に対しては、時にとつての清涼剤として、有益に又面白く読まるゝものである。斯様なる著述は本邦に乏しき西洋史の知識に寄与する処あるものとして、我等も亦紹介の労を惜しむべきではない。
 但し本書の終末は聊か〈イササカ〉龍頭蛇尾の傾〈カタムキ〉があり、一般史書に見られるだけの知識をも展開し得ざる著者に対しては聊か同情を禁じ得ない処であるが、氏は親しくパリに於てこの研究を進められるとの事であるから、この部分だけは他日補訂せられるものと見てよからふ。(間崎万里)

 この事件を、「十九世紀末に於ける漸次共和政権確立運動の優勝に至る途上、前のブランジェー事件から後の政教分離運動への中間の一過程」と捉える視点は興味深い。
 また、間崎は、本書の終末について、「龍頭蛇尾の傾」があるという指摘をしている。言われてみれば、たしかにその通りである。大佛次郎は、明らかに、「本書の終末」を書き急いでいる。つまり、事件の最終的な決着については、詳述していない。これには、一九三〇年(昭和五)の初出時において(『改造』連載、四月~一〇月)、紙数の問題が生じた、資料調査の上で制約があったなどの事情も考えられる。だが、それ以外に、あえて、こういう終わり方にしたという見方もできるような気がする。このことについては、もう少し、考えをまとめたのちに書くつもりである。

*このブログの人気記事 2015・12・25(9位に珍しいものが入っています)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手紙は、書き直されたものが手渡された

2015-12-24 05:10:50 | コラムと名言

◎手紙は、書き直されたものが手渡された

 昨日の続きである。大佛次郎の『ドレフュス事件』を、『大佛次郎ノンフィクション全集 第1巻』(筑摩書房、一九七一)で再読していたが、数日かけて、ようやく読みおえた。
 この全集第1巻には、『ドレフュス事件』と『ブゥランジェ将軍の悲劇』の二篇が収められている。渡辺一民氏の校訂・解説によるもので、事項注解(校訂に際しての注を含む)、固有名詞注解(索引を兼ねる)、「ドレーフュス事件略年表」、「ブーランジェ将軍事件略年表」に加え、地図二葉まで付いているという、至れり尽せりの編集となっている。
 惜しいことに、一一九ページ下段に重大な誤植がある。「千八百九十六年六月五日」とあるのは、「千八百九十九年六月五日」でなければならない(ドレフュスが、再審決定を知らされた日である)。
 さて、ドレフュスが「悪魔の島」に流されたのは、一八九五年二月のことであった。この島におけるドレフュスの生活を、大佛次郎『ドレフュス事件』は、次のように描写している。

 事は滞りなく決定された。ドレフュスを護送する船は、二月二十一日に本国の海を離れた。
 サリュ列島の気候はひどいものだった。一年を通じての暑熟に加えて、雨が降り出すと五カ月の間、空が蓋をされたようになるのである。島全体がごろごろした岩で、樹木は殆ど見られない。岩ばかりのところに熱帯の日が燬く〈ヤキツク〉ように烈しく射す〈サス〉ので、並の人間が住んでいよう筈がない。
 囚人は島の内だけは自由に歩いてよいのである。小屋に住んで荒地を耕すのである。けれどもドレフュスは、普通の囚人並に待遇することは出来ない。ほかの者から隔離して、列島の中一番小さいリイル・デュ・ディアブル(悪魔島)と云う、島と云うより巨きな岩の塊で、最近まで癩病患老者を置いてあったところへ、小屋を建てて監禁するのだった。
 小屋は四方に高い垣根を繞らし〈メグラシ〉てあった。見えるのはぎらぎらした空だけだった。それと壁も同然に単調な四方の海だけである。
 日夜衛兵が一人附いて門のところにいる。これもドレフュスと口をきくのは禁じられていた。ドレフュスの身柄に附けて来た役所の書類には、「頑強なる悪人。憐憫〈レンビン〉を要せず。」と明瞭に書いてあったので、取扱いは最初から苛酷であった。
 リュシイ〔ドレフュスの妻〕が同行を願い出ていたが、勿論これは許されなかったので、顔を見ていても口をきかない衛兵だけが、ドレフュスが自分以外に見る人間であった。
 ドレフュスは、すぐ熱病に罹って苦しんだ。それがなおる頃になると、意志の強いこの男は、この新しい境遇に馴れようと努力した。炎熱にも、単調な自然にも、負けまいとして張り合った。
 幸い本だけは貰えたので、英語と数学を勉強始めた。それから書くこともありようのない単調な毎日毎日の日記を書くことにした。こうしていて、時に、あるいは一生こうしていることになるのではないかと思うと、発狂しそうな気持になる。〔三〇~三一ページ〕

 ドレフュスは、このように過酷な囚人生活を送っていたが、最初の数年間は、それでもまだ、比較的にマシだったのである。一九九七年ごろから、彼に対する扱いは、さらに厳重なものになった。これは、ドレフュスは冤罪だという言説が広まるのにともなって、彼を島から救い出そうという計画あるという噂が出たことに、当局が過敏に対応したものであろう。
 再度、大佛次郎の文章を引用する。

 千八百九十八年に入ってからは、絶えず勇気を持たせる役をしてくれたなつかしいリュシイの手紙さえ、当人自筆のものを渡されるのは稀れで写しを渡される場合が多くなっていた。またリュシイに渡るドレフュスの手紙は、全部、他人の筆跡で書いたものだった。夫のものでない、妻のものでない、と疑えば疑うことが出来るのだった。
 島にいる夫にも、本国にいる妻にも、この時分が、不安と苦悶の最も耐え難い時であった。〔九六ページ〕

 大佛次郎は、ドレフュスの手紙、あるいは妻リュシイの手紙が、なぜ「代筆」されたものになったかについて、適切な説明をしていない。これは、当局が、「秘密の通信」を避けようとしてとった措置であった。
 今月一五、一六日のコラムで、英語雑誌『青年』第二巻第一一号(一八九九年一二月)に載った「ドレフュス事件」(THE DREYFUS CASE)という英文を紹介した。そこには、「妻からの手紙も、そのまま、受け取ることはできなかった。秘密の通信を防ぐため、手紙は、文章の順序を入れ替え、書き直されたものが手渡された。」( not permitted even to receive hie wife's letters until they had been so rewritten, the order of the sentences so altered, as to make secret communication impossible. )という一節があった。
 この箇所に関して、『青年』誌の編集者は、「西洋には手紙を一行置きに読むとか又は縦に読むとかして秘密の通信を受くる方あり」と注釈している。この注釈は、「夫のものでない、妻のものでない、と疑えば疑うことが出来るのだった」という大佛次郎の情緒的なコメントに比べれば、はるかに有益だと思う。いずれにしても、英文「THE DREYFUS CASE」の筆者が伝えようとしたドレフュスの通信状況は、一八九九年以降のものだったと考えてよいだろう。
 ちなみに、『青年』誌の第二巻第一一号が発行されたとき、一八九七年生まれの大佛次郎は、まだ数えで三歳だった。

*このブログの人気記事 2015・12・24(7位にやや珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドレフュス事件とデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐

2015-12-23 06:13:51 | コラムと名言

◎ドレフュス事件とデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐

 今月一五日のブログで、ドレフュス事件に触れた。以来、ドレフュス事件に対して興味が湧き、映画『ゾラの生涯』(一九三七)を観たり、図書館から渡辺一民氏の『ドレーフュス事件』(筑摩書房、一九七二)を借り出したりした。本当は、まず、大佛次郎の『ドレフュス事件』(初出、一九三〇)を再読すべきだったのだが、持っているはずの古い単行本が、なかなか見つからない。しかたなく、一昨日、図書館に赴き、『大佛次郎ノンフィクション全集 第1巻』(筑摩書房、一九七一)を借りてきた。
 さっそく、読みはじめる。簡潔にして情理を尽くした名文に、あらためて感心する。これは、優れた小説であると同時に、鋭い問題提起を含んだドキュメントである。
 最初のほうに、ドレフュスが逮捕される場面がある。引用してみよう。

 ドレフュスは初めて、呼ばれたのが自分だけらしいのに気がついた。
 ピカール少佐は、暫くしてから、参謀総長の部屋ヘドレフュスを連れて行った。そこには総長はいないで、デュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐がドレフュスの知らない平服の三人の男といて、大尉の敬礼を受けた。その三人と云うのは、あとで判ったが、憲兵総監とその書記と記録係だった。
「将軍は今来られるが……」
 と話し掛けたデュ・パチイ少佐の声は、ドレフュスにも、何かしら普通でない調子が感ぜられるものだった。
「それまで、私は手紙を書きたいが、手を痛めているので、君に筆記して貰おう。」
 見れば脇の卓【テーブル】にペン軸と紙の用意が出来ていた。ドレフュスが何気なくそれに向って座ると、少佐は椅子を持って来て、ドレフュスの傍【かたわら】に腰掛けた。
 少佐が口述してドレフュスに書かせたのは、例の密書の文句だった。一々言葉を区切って口述しながら少佐の目は、ペンを持ったドレフュスの手に凝と〈ジット〉そそがれていた。
「君、手がふるえておるじゃないか?」
 少佐が急に詰問するようにこう云い出したので、そんな筈のなかったドレフュスは吃驚〈ビックリ〉したように振向いた。
 少佐は凄い気色で繰返した。
「ふるえている……」
 何となく敵意に近いものが感じられるような声である。ドレフュスは自分の手を見詰めた。ふるえているようには信じられなかったが、冷たい外気の中を歩いて来たところだったので、おとなしく、
「手がつめたいのであります。」
 と答えた。
 次にドレフュスが驚いたのは、少佐が、「重大なところだ。」と叱りつけるように云った時だった。これも意味がわからなかったので、ドレフュスは、ただ字体を正しく書くようにした。
「それまで、」
 と少佐は急に口述を歇めて〈ヤメテ〉、椅子から立った。
 立ったかと思うと、その手を重くドレフェスの肩へ置いて、
「法律の名に於て、君を逮捕する。」
 と云い、
「叛逆罪だ。」
 と附加えた。
 ドレフュスは立上っていた。
 何が何だかわからずに声を立てて抗議した。その時までに傍に来ていた憲兵総監と書記がそれと見ると、左右からドレフュスの腕をつかんだ。

 映画『ゾラの生涯』にも、ほぼ、これと同じ場面が出てくる。映画でも、最後にドレフュスを連行していったのは、「平服の三人」であった。大佛次郎も、映画の脚本家も、同じ文献を参照していたものと推測される。
 ただし、映画では、ドレフュスに尋問にあたったのは、「デュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐」ではなく、別の名前の軍人である。最後のクレジットでは「Major Dort」、日本語字幕では「ドルト大佐」(ママ)となっていた。「du Paty de Clan」が長すぎるので、勝手に、「Dort」にしてしまったのだろう。ちなみに、ゾラは、「私は弾劾する」("J'accuse")において、このデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐のことを最も強く批判している。
 なお、映画で「Major Dort」を演じている長身の俳優は、ルイス・カルハーン(Louis Calhern)である。どこかで見た顔だと思ったが、ジョン・ヒューストン監督の傑作『アスファルト・ジャングル』(一九五〇)で、犯罪に加担する銀行家に扮して、重厚な演技を見せていた。その銀行家の愛人役を演じていたのが、まだ無名に近かったマリリン・モンローである。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2015・12・23(6・10位に珍しいものが入っています)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平安中期の武将・源頼義と『続本朝往生伝』

2015-12-22 06:44:12 | コラムと名言

◎平安中期の武将・源頼義と『続本朝往生伝』

 一昨日のコラム「源頼義、集めてきた戦死者の片耳を埋める」では、平安中期の武将・源頼義〈ミナモト・ノ・ヨリヨシ〉が、戦死者の片耳を集めていたという話を紹介した。これは、笠原一男編著の『近世往生伝の世界』(教育社歴史新書、一九七八)の序章において、笠原一男が紹介していた逸話の一部であり、笠原は、その典拠が、大江匡房〈オオエ・ノ・マサフサ〉が編んだ『続本朝往生伝』であるかのように書いていた。
 昨日、念のために、国会図書館のデジタルコレクションで、『続本朝往生伝』を閲覧してみた。閲覧したのは、『日本往生全伝』(永田文昌堂、一八八二)に収められているものである。源頼義が、その晩年に、これまでの罪障を悔いた話は、たしかに出てくる。しかし、「片耳を集めた」ことには、一言一句も触れていない。つまり、源頼義が戦死者の片耳を集めていたという話の典拠は、少なくとも『続本朝往生伝』ではない。
 とりあえず、笠原一男の文章の一部、そして『続本朝往生伝』の当該部分を、そのまま
引用しておくことにする。

【笠原一男の文章より】
 前伊予守〈サキノイヨノカミ〉源頼義は代々の武勇の家に生まれ、一生涯殺生〈セッショウ〉を仕事として送った。さらに前九年の役には、十余年の間戦い、人の首をとり、生き物の命を断ったことは、たとえれば中国の竹の産地である楚や越もおよばないほどで、数えきれないくらいである。その結果、特別の恩賞にあずかって正四位に叙せられ、伊予守に任ぜられた。まさに頼義は最も理想的な武士として朝廷のために生涯をささげた人物であった。
 しかし、頼義は晩年におよび、心を改めて等身の阿弥陀仏を安置した御堂〈ミドウ〉を建て、前九年の役以来戦死者の片耳を切りあつめ、干し、箱二つに収めて持ち帰っていたのを、ここに埋めて供養〈クヨウ〉した。そして今までの罪障を深く悔いて、多年の間念仏し、最後には出家した。彼の死後、多くの人が頼義の極楽往生の夢を見た。(『続本朝往生伝』参照)
 源頼義は武人としてりっぱにその任をはたした人である。その当然の結果として多くの殺生を重ねなければならなかったわけである。しかし、たとえ国家のためという大義名分があろうとも、往生伝の編者は悪は悪として容赦することがなかった。頼義は悪人の名に値する人物であったが、悔い改め善人化への努力によって往生をとげたというのである。大江匡房は頼義の往生伝を見て、「これでわかつた、十悪・五逆の者でもなお弥陀〈ミダ〉の来迎往生を許されることを。なんぞいわんやそれ以外の人びとをおいてをや」と記している。
【『続本朝往生伝』のうち、上記に対応する箇所。句読点は礫川が施した】
 前伊予守源頼義朝臣者、出累葉武勇之家、一生以殺生為業。先当征東之任、十余年来、唯事闘戦、切人首、断物命。雖楚越之竹、不可計尽。預不次之勧賞、叙正四位、伊予守。其後建堂、造仏、深悔罪。多年念仏、遂以出家。瞑目之後、多有往生極楽之夢。定知、十悪五逆、猶被許迎摂、何況其余哉。

*このブログの人気記事 2015・12・22(10位に珍しいものが入っています)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする