礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明のいう「関係の絶対性」は「倫理」なのか

2013-08-07 03:29:03 | 日記

◎吉本隆明のいう「関係の絶対性」は「倫理」なのか

 昨日の続きである。多羽田敏夫氏は、その論文で、吉本隆明のいう「関係の絶対性」と親鸞のいう「業縁」に由来することをハッキリと指摘している。思うにこれは、非常に重要な指摘である。すでにそのことを指摘している論者がいるのであれば、「すでに誰々によって指摘されているように」などの注記がほしいところだが、たぶんこれは、多羽田氏のオリジナルな視点なのではないだろうか。もしそうだとすれば、多羽田氏は、この視点がオリジナルなものであることを、この視点が重要な意味を持つことを、もっと強調してよかったのではないか。
 ところで多羽田氏は、この「オリジナルな視点」を、どのような「文脈」のなかで提示しているのか。
 吉本隆明は、世界貿易センタービルで起きたテロにかかわって、二〇〇二年に、「人間の『存在の倫理』」という概念を提示した。この概念を意識しながら吉本は、テロリストたちが、旅客機の乗客を降ろさないままビルに突っ込んだことを激しく非難した。
 多羽田氏は、吉本の「人間の『存在の倫理』」という概念、あるいは、乗客を降ろさなかったテロリストを非難した論理を、この論文において再解釈した。吉本隆明のいう「関係の絶対性」が、親鸞のいう「業縁」に由来するという多羽田氏の「オリジナルな視点」は、この「再解釈」にあたって援用されているのである。
 昨日引用した箇所に続く部分を、次に引用してみよう。

 ……すなわち「偶然の出来事」も「意志して撰択した出来事」も恣意的な、相対的なものにすぎない。真に弁証法的な「契機」は、意志や偶然を超えて、ただそうするよりほかにすべがなかったという「関係の絶対性」からしかやってこない。つまり、人間は、「関係の絶絶対性」によって、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、「関係の絶対性」が関与しなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない存在であるということである。
 この註釈を米国同時多発テロに当てはめてみれば、テロリストたらが、世界貿易センタービルを狙ったのは、「〈不可避〉的な契機」(=「関係の絶対性」)によってであるということになるだろう。
 それでは、テロリストたちが旅客機の乗客を降ろさずに、そのまま道連れにしてセンタービルに突っ込んだ行動についてはどうなのか。いうまでもなく、それは、吉本が、テロリストたちがやろうとしている象徴的行為にとって、旅客機の乗客たちが「全然関係のない人たち」であると強調しているように、テロリストたちに、旅客機の乗客たちを道連れにする「不可避的な契機」などまるでないということである。だが、テロリストたちは、「乗客たちの人間としての存在自体を、初めっから無視」することによって、「存在の倫理」そのものを根こそぎにしてしまったのだ。いいかえれば、人間の存在の最低の条件である「関係の絶対性」という倫理的な責任を全く放棄してしまったのである。吉本が、「乗客たちを降ろしたか否かということが重要な問題になる」と強調し、「人間の『存在の倫理』」に反するというのは、まさにそれゆえにほかならない。

 個人的な感想を言えば、吉本隆明が、世界貿易センタービルで起きたテロにかかわって、旅客機の乗客たちを道連れにしたことを重大視していることに、どうも違和感がある。また、吉本が、テロリストを非難するために、「人間の『存在の倫理』」という概念を創出したことに対しても、共感しがたいものがある。しかし、今は、この問題について論じない(数回のちに論ずることになろう)。
 それ以上に気になるのは、多羽田氏が、引用した箇所の最後のほうで、「人間の存在の最低の条件である『関係の絶対性』という倫理的な責任」という表現を使っていることである。
 ここで、多羽田氏は、「関係の絶対性」を、「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」として捉えているようだ。氏がここで、吉本のいう「人間の『存在の倫理』」という概念を用いて、「関係の絶対性」を再解釈しようとしているのであろうということは推測がつく。しかし、吉本のいう「関係の絶対性」をそのように捉えることは妥当なのか。
 吉本が「マチウ書試論」で「関係の絶対性」を使ったとき、それを「人間の存在の最低の条件である倫理的な責任」のいう意味で用いていたとは、とても思えない。おそらく多羽田氏は、これは、二〇〇二年に吉本が提示した「人間の『存在の倫理』」という概念を、一九五〇年代の用語である「関係の絶対性」に遡って、適用したのではないだろうか。だとすればこれは、「関係の絶対性」に対する解釈としては、かなり恣意的なものと言えるのではないだろうか。
 多羽田氏は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」が親鸞のいう「業縁」に由来することを指摘した。おそらくこれは、多羽田氏のオリジナルな視点であろう。ところが、氏はこれを、吉本の世界貿易センタービル事件についての言説を再解釈するなかで提示した。そのために、せっかくのオリジナルな視点を、印象的に提示することができなかった。これは、ある意味で、残念なことだと思う。のみならず氏は、吉本の「関係の絶対性」について、かなり踏み込んだ解釈を示している。これは、せっかくの氏の「オリジナルな視点」を帳消しにしかねない恣意的な解釈であり、このことについてもまた、残念だという感想を抱くのである。【この話、もうしばらく続く】

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