◎先生は大震火災で一切の家財蔵書日記を焼失された
昨日の話の続きである。ウィキペディア「岡本綺堂」の項を閲覧したところ、次のようにあった。
回顧記『ランプの下にて』は、「過ぎにし物語」の題で『新演芸』誌に、1920年から22年と関東大震災をはさみ24年から25年にかけ連載された。続いて『歌舞伎』誌に1929年から30年に前半部を再録。1935年に『明治劇談 ランプの下にて』が刊行、1942年に大東出版社の「大東名著選」に、『歌舞伎談義』と共に『明治の演劇』の題で出版され、「戦時下、青少年の情操陶冶に資する」として文部省推薦本となった。
綺堂自身は、劇評家時代から俳優とは私的な付き合いや楽屋への出入りもせず、劇作に携わって以降も、二代目左團次も含めそれらの事は変わらなかったため、俳優の私生活には筆が及んでない。1949年に再版の同光社版には、綺堂による「明治演劇年表」が入っている。
これによって、大東出版社『明治の演劇』の来歴などを、いくらか知ることができた。なお、岩波文庫から、『明治劇談 ランプの下にて』(一九九三)が出ているが、その編集方針や構成は、まだ確認していない。
本日は、『明治の演劇』(大東出版社、一九四二)の巻頭にある「解題」を紹介しておきたい。執筆しているのは、綺堂の高弟・額田六福(ぬかだ・ろっぷく、一八九〇~一九四八)である。
解 題
こゝに語られる世界は、電車も自動車もなかつた時代である。電燈や瓦斯燈の使用も、官省、銀行、会社、工場、商店、その他の人寄せ場に限られて、一般の住宅では未だランプをとぼしてゐた時代である。江戸の名残も色濃く、わけて伝統的な演劇界には、近代日本興隆期たる明治文化の特質と東京風俗の面影があざやかに宿つてゐた。著者はその過去の梨園に落ち散る花びらを拾ひあつめるやうに、幼年の頃から団菊左の歿に至る、自ら経て来た長い道程を顧みて、劇界人として見るまゝ聞く侭をそれからそれへと語りつゞけてゐるのである。
従つて本書には難かしい演劇理論の展開もないし、記録的な劇壇史をも意図されてはゐない。しかし読者は、豊かな情操と深い観察の物語りの舞台を通して、そこに躍動ずる時代の息吹きや先人の苦闘と歓喜、そして類ひ稀な鑑賞の世界を感得するであらう。往事を追想して涙するやうな滋味溢るゝ情感の筆触に、誰しも時の流れ、人生の行路について泌々〈シミジミ〉とした郷愁の感慨を催すに違ひない。而も著者の意図すると否とに依らず、明治風俗文化の素材としても将来の研究者にとつて貴重な文献となるであらう。
因みに、この稿は初め「過ぎにし物語」といふ題で大正十三年(著者五十四歳)の初頭から「新演芸」の誌上に連載された。先生は彼の〈カノ〉大震火災の厄に遭うて一切の家財蔵書日記の類を焼失され、参考書もない仮寓〈カグウ〉で記憶にのみ頼つて書かれたのだつた。東京では壊滅の焼土の中から芝居はいちはやく復興して大成功を収め、演劇の人心に及ぼす影響の如何に大きいかを我人ともに痛感してゐる頃である。時局下演劇文化の重要性を強調されてゐる際、本書の価値また少しとしない。
著者岡本綺堂先生に就いては改めて説明するまでもあるまい。三代に亘る我劇界に不滅の足跡を残された先生は昭和十四年〔一九三九〕六十八歳を以て逝かれた。恰も今月は祥月〈ショウツキ〉にあたる。
昭和十七年 三月 綺堂忌 門 生 額 田 六 福
文中に、「参考書もない仮寓で」とあるが、この仮寓は、額田六福の家だったという(ウィキペディア「岡本綺堂」)。額田六福は、一九二〇年(大正九)四月、岡本綺堂夫妻の媒酌のもとに結婚し、「東京市外高田町」に住んだ(ウィキペディア「額田六福」)。関東大震災のあと、岡本綺堂が身を寄せた額田の家というのは、その高田町(たかだまち、東京府北豊島郡高田町)の家だった可能性が高い。
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