礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

なまけ者になりなさい(水木しげる)

2016-01-08 03:34:55 | コラムと名言

◎なまけ者になりなさい(水木しげる)

「現代漫画 5」の『水木しげる集』(筑摩書房、一九六九)を紹介している。
 本日は、同書巻末にある水木しげるさんの文章「ねぼけ人生」を紹介してみよう。八ページに及ぶ文章だが、紹介するのは、最初の三ページ分。

  ねぼけ人生   水木しげる
 ぼくは鳥取県の境港〈サカイミナト〉市で生れた。よく食べ、よく寝る子供だった。
 三つ四つの頃「のんのんばあ」というおばあさんがいた。のんのんというのはのんのんさん仏の意であるから、おがむおばあさんという意味だったのだろう。四十年程前ぽくの家の女中をしていたという話だった。このおばあさんが胴まわりがたらい位ある大蛇の話だとか狐に化かされる話をさもほんとうらしくするのだった。
 それからおぼんになるとおくり火とかむかえ火とかいって精霊をおくり「来年またござっしゃれや」となにもない空間にむかってさも本当になにかいるようにさけぶのだった。これはきっと大人になれば見える何者かがいるのだろうと思った。
 それから「とうろう流し」の変形であろう、わらの船にほおずきとかなす、きゆうりなど仏様の供物をつんで海に流す。「どこへゆくのか」ときくと「十万億土に行くのだ」という。なにげない年中行事だが、そのショックは大きかった。この海上の遠くかどこかに何かあるんだ、そうでなかったら大人がまじめに船を流すわけがないと思ったものだ。
 また、のんのんばあはもろかという島根半島の奥にぼくを連れて行った。それはばあさんの故郷であったらしいが、山道をゆくと古い石仏などあって、なんだかハッキリした記憶ではないが太古に自分が通ってきた場所をいま子供になってまた通っているのではないか、という妙な感じを味わった。(ぼくはその時人間は生れかわるものではないかと感じ、りくつにはあわないが今でもその感じを強くもっている。)
 やがて小学校三年の頃婦人雑誌で手相のことが書いてあつたので面白半分にみていると、ぼくの生命線は半分にきれている。計算すると二十歳位の個所だった。「若死にする」これがまたショックだった。二年位死の恐怖におびえた。(この恐怖は徴兵検査が近づいた十八・九歳頃から再び現われ哲学を読んでみる気持にさせた。)たいていその頃の夢は死に関するものだった。
 ほくはよく食べてよく寝る子供だったから学校の方も朝めしをゆっくり食うのでたいてい一時間目の算数は○点をちょうだいしておった。
 夏は海水浴ばかりしていたし運動は常に選手であった。またガキ大将でもあり「ネコ安」という子分までいた。
 小学校の頃、油絵で個展を開いて「天才少年現る」と毎日新聞に出たこともあった。やがて高等小学校を終ると、大阪園芸学校なるものの試験をうけたが、これは募集人員が五十名であり入学希望者は五十一名だった。たった一人落ちるわけだ。
 まさかぼくがその一人であろうとは思わなかった。運命というやつであろう。ぼくの名前だけが貼出されていなかった。
 しかたなく印刷の製版屋かなにかにつとめたが、全然使いものにならなかったらしく解雇された。親父の話では、やとい主の方ではマジメに働かず絵ばかり書いている、その上に奇妙な行いがあるというのだ。頭がオカシイじゃないか、というわけだ。だから親にとっては頭痛の種だったらしい。「いったいこの子はマトモにそだつのだろうか」と。そこで両親はシケンのない学校に入れることにして大阪上本町〈ウエホンマチ〉の精華美術学院なるところへ入れた。図案の学校である。二年ばかりいたが図案ばかりかかされるのでいやになり、やめて新聞配達になった。
 新聞配達で新聞をみていると、日本工業学校というのが生徒募集をしているので受けてみたら入った。入学はしたものの、採鉱科という鉱山の石をほる科だった。石の角度やなんかにはなんの興味もないから常にいねむりをしていた。絵の時間だけいっしようけんめいやっていると、絵の先生が絵の学校に行った方がよいという。やがて落第になりそうになったのであわててやめた。
 そのころ兄貴や弟は専門学校に入って甲子園に家を借りていたので、ぼくも新聞配達をやめてついでに学校もやめて、そこへ行って毎日虫の絵を眺めたり、哲学の本を読んだりしてくらしていた。それから大阪夜間中学という夜学が生徒を募集していたので、また編入試験をうけて入った。その間中之島洋画研究所でデッサンをしたり、中国通信というところでアルバイトをしたこともあったが、夜間中学三年の時召集令がきて軍隊に入った。
 半年ほど鳥取連隊にいてラッパ卒にさせられたが、なかなかラッパがうまくふけない。ぼくは人事係の曹長にラッパをやめさせてくれといったのがいけなかった。早速南方はラバウルにやらされ、九死に一生を得て片手になって昭和二十二年〔一九四七〕浦賀に上陸し、すぐ相模原病院(元の第三陸軍病院)に入れられた。
 命があるからいいとはいうものの、片手ではしようがない。なんとか心にもう一本の手を生やし一人前にならんことには女も相手にはしない、というわけだ。といってビタ一文あるわけではない、早速二、三人の兵隊と話し合って米はこびである。秋田まで行って米をはこんでくると千円になる。そうこうしているうちに街頭募金をやらないかということで、五、六人でスキヤ橋に立ったが大へん心臓のいる仕事だった。【以下略】

 最後のほうに、「街頭募金」とあるが、「白衣の傷病軍人」として街頭に立ったということである。水木しげるさんにとって、最もつらく苦しい時代だったと思う。

今日の名言 2016・1・8

◎なまけ者になりなさい

 水木しげるさんの言葉。正月二日に、『水木しげるのほのぼの名言クッキー』(株式会社きさらぎ)をいただいた。クッキーの表に『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターや、水木しげるさんの名言がある。名言は三種類で、そのひとつは「なまけ者になりなさい/水木しげる」であった。

 *このブログの人気記事 2016・1・8

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 鶴見俊輔、水木しげるを論ずる | トップ | 後藤朝太郎著述書目(1939) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事