◎なつかしい東京の都は、もう永久に無い(小川未明)
小川未明の「九月一日、二日の記」(一九二三)を紹介している。本日は、その四回目。
三
東京は、たしかに、火の都である。火は、一日、一夜、空を焦がしてゐた。僅かばかりの荷を負つて、この都会から、逃げて行く、避難民の群〈ムレ〉が、私の家の前をつゝいた。
老婆を荷車に乗せ、それといつしよに蒲団や、家財道具の類を載せて曳いて行く者もあつた。彼等は、より安全な地域に脱れ〈ノガレ〉ようとするのだ。
不安と、危惧の裡〈ウチ〉に夜が明けた、二日も、はや昼頃になつた。そして、地の揺ぐのは、尚ほまなかつた。みんなは、家を怖れて入らうとするものがない。芋畑の中で、パンを嚙つたり〈カジッタリ〉、飯を食べたりしてゐた。
「今日、午後二時頃大地震がありますから、気をつけなさい!」
どこからか、こんな伝令が達した。
その時、ある人は、言つた。
「地震といふものは、最初のが、一番大きくて、あとは、だんだん小さくなるものです。もう大きいのは、来ますまい」
また、ある人は、言つた。
「学者の言ふことが当〈アテ〉になりますか。ある地震博士は、東京へは、大地震が来ないといつたぢやありませんか。こんな大きい地震が来るのを其の以前に知らないやうな学者は、言ふことに権威がありませんよ」
「ほんとうに、さうです。天気予報と同じことで、却つて、あるから当にするので、無い方が余程いゝのです」
「房州あたりの漁師は、大島の煙が、今年は、いつになく多いから、変りがなければいゝがと言つてゐたさうです。昔の人の言ふことや、さうした経験から言つたことは馬鹿にできません」
「さういへば、大島は、陥没してしまつたといひますが、ほんたうでせうか?」
「月島に、大きな海嘯〈ツナミ〉が来て、九分通り洗ひ去られたといふことです」
「まだ、そんなことは、この騒ぎの中でよく分りますまい」
私は、人々が、こんな話をしてゐるのを聞いたのであつた。
たとへ、それが風説にしようが、午後二時の刻限が怖しかつた。そして、こんど大地震が来たら、自分の家も、隣の家も、また半分壊れかけてゐるすべての建物が、すつかり潰れてしまふのだと思はれた。かうして、東京は、事実に於て無なつて〔ママ〕しまふであらう。
私は、この恐怖の裡に、自然の力について考へさせられたのであつた。古来から、かうした、変災によつて、幾たび、人間の地上に築き上げた文化が滅ぼされてしまつたであらうか。すべて、曽つて〈カツテ〉は在つた文明が、今は、全く無いのである!今は、たゞ歴史の上にばかりある、羅馬〈ローマ〉も亡びたし、カーセイジも滅びた!
東京のあの賑かであつた街、江戸時代の面影をなほ何処かにとゞめてゐるなつかしい東京の都は、つい一日前までは、在つたのだ。そして、今日は、もう永久に無い、過去の事実となつてしまつたのだ!【以下、次回】
文中、「カーセイジ」は、カルタゴ(Carthago)のことか(ラテン語ではCarthage)。
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