礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

津久井龍雄の目に影じた石原莞爾

2013-11-03 07:48:17 | 日記

◎津久井龍雄の目に影じた石原莞爾

 ちょうど神田の青空古本市のシーズンである。今年は、青空市の会場を隅から隅まで見てまわったが、これといったものが見つからない。路上であり、人が多くて、ゆっくり本を選べるような雰囲気ではない。
 そのあと、古書会館でやっている古書展を覗く。こちらは人も少なく、本もそれなりに厳選されている。小一時間いて、そう高くない本を数冊購入した。
 そのうちの一冊が、津久井龍雄の『右翼』(昭和書房、一九五二)。後日、パラパラとめくってみると、石原莞爾〈カンジ〉を訪問した時の話があった。本日は、これを紹介してみよう。

 日蓮信者としての石原
 とはいうものの人格が高潔で、質素な生活に甘んじ、公私の別がきわめて厳で、師団長の高官にあったときでも、私用に軍の自動車は絶対に用いず、部下を愛すること吾が子の如くであったことは、まことに他の容易に真似しえないことで、当世稀に見る風格であった。
 風貌も何となく高僧の俤〈オモカゲ〉があり、枯淡の趣〈オモムキ〉があって、人間として第一級に属するものとの印象を蔽え〈オオエ〉なかった。仙台の連隊長をしているとき、赤松克麿〈カツマロ〉君と二人で彼を訪れたことがあり、その時何を語ったかはもう殆ど忘れてしまったが、薄暗い電燈の下で和服を着て端座したその禅僧のような俤だけは、今もなお私の眼底に刻みつけられて、いつまでも忘れることができない。
 石原の人物を本当によく知るためにはおそらく日蓮宗に対する理解を欠いてはならないのかもしれない。右翼人の中には日蓮信者が多く、本書の中に出てくる井上日召〈ニッショウ〉も北一輝〈イッキ〉もみな日蓮信者である。併し私は宗教に対する知識が皆無であり、従って日蓮宗についても知るところがないから私の石原論は、他の井上や北に対すると同じように不十分なものであることをまぬかれまい。彼の世界最終戦諭も日蓮上人の『前代未聞の大闘諍、一閻浮提〈イチ・エンブダイ〉におこるべし』という予言を固く信じ、そのときには悲惨に呻吟〈シンギン〉する人類を救うために本化上行〈ホンゲジョウギョウ〉菩薩が必ず賢王の姿で此の世にあらわれ、その賢王の唱題に和して日月所照の四天下一切の衆生〈シュジョウ〉が大音声〈ダイオンジョウ〉を放って南無妙法蓮華経と唱えるという説示への信仰に発していた。彼は六十一歳で逝ったが、日蓮上人もまた同年で死したので、彼はそのことを深く本懐とした。
 石原の病気は膀胱肉腫というので、激痛を伴う出血がつづき、ひどく苦しいものであるらしいが、右原は宗教的諦悟によって克く之に堪え、幾度かの死線をも踏みこえて周囲の者をおどろかせた。長い病床生活にもかかわらず、最後まで円満柔和な相を失わず、看護人等に対しても、彼等が当惑するほどの感謝の態度を示したという。
 終戦後アメリカの検察官が彼を取調べたときの彼の態度は極めて立派であり、いささかも臆する色がなかった。彼は東亜連盟の理想を述べ、満洲建国の趣旨を陳じ〈チンジ〉、太平洋戦争を批判し、アメリカ検察官をして多分に耳を傾けさせた。私が戦犯軍事裁判に対して今でも遺憾に思うことは、大川周明〈シュウメイ〉や石原莞爾をその法廷に立たしめて、堂々と彼等の所信を陳述させ、それを通じて日本国民にも真の理解をあたえることがなされないことであった。
 終戦直後東久邇〈ヒガシクニ〉内閣への協力が期待されたが、彼の病気がそのことをさまたげた。もし病気でなくてもやがて追放の身になる運命にあったから、その点ではさしたる変りはなかったであろうが、たとえ短時日の間でも彼が内閤の中心に座するということがあったら、いろいろな点で異彩を放ったにちがいない。それによって幾分なりとも、当時全くの失神虚脱状態にあった日本の朝野に活を入れることができたかもしれない。

「日蓮信者としての石原」の節の全文である。なお、本年一月九日の当コラム「『一億総懺悔』論のルーツは、石原莞爾か」ほかを併せて参照していただければさいわいである。

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