◎空海の文集に大秦寺に関する記事なし
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その六回目。
斯〈カク〉の如くに先づこの大秦寺と云ふものの存在が分り、この碑文の撰者たる僧景浄が分り、碑文中の大徳及烈が分るといふやうな訳で、次第に景教碑そのもの真物たることが明確になりました。こんなことを後世の天主教の坊さんなどが拵へ得る訳のものでありませぬから景教碑の真正は最早之を疑ふ余地はありませぬ。唯茲に千二百五十年も経つて居るこの石碑が何故こんなに立派に残つて居るかといふ問題があります。即ち余りに石碑が立派に保存されて居る為に動も〈ヤヤモ〉すれば先刻述べましたやうに偽造ではないかと疑はれたのでもあります。併し、是は唯今申しました通りに。西暦一千六百二十三年に(天啓三年)至り、即ち我が元和の末寛永の初めに此の長安附近の地中から掘り出されたのであります。従つて永い間地中埋没して居つたのであります。それが為に大泰寺に遊ぶ人の目にもつかす、又た悪戯者〈イタズラモノ〉等にも傷けられるといふやうなことが無くて済んで来たのであります。そこで次に問題となることは果して然らば何時頃、誰が、如何なる理由で之を埋めたものであらうかといふ問題であります。詰り建中二年(西暦七百八十一年)に是の石碑が建つたものと致しますと、明の天啓三年即ち西暦一千六百二十三年頃まで初めからずつと地中に埋没して居つた訳でもありません。必らず多少の年月は人の目にも留つたことゝ思ひます。併し唐の文人雅客も何も云つて居りません。又た蘇東坡もその弟の子由もこの石碑に付ても何も言つて居らぬ様です。又た楊雲翼の文集にもこの碑文のことに関しては何も書いて居りませぬから、この三人がこの大秦寺の境内に遊んだ時には先づこの石碑は地上にはなかつたものだと推定を致しましてもよいと存じます。併し建中二年から何年経つてからこの石碑が埋没したかといふ問題は仲々六ケ敷い大きな問題なのであります。勿論、之に付ては色々の想像が行はれて居ります。それからもう一つの問題は、弘法大師が支那に行つたのは我が延暦〈エンリャク〉二十四年で支那の貞元二十年ですから西暦八百四年であります。即ち此の碑が建つてから丁度二十三年目であります。その二十三年後に弘法大師は長安に行かれたのであるが、弘法大師の文集五十冊を見ても、般若法師のことは沢山ありますが景浄のことやこの景教の寺のことは何もありませぬ。蘇東坡の文章の中には大秦寺に詣つた記事がありますが、弘法大師の文章には大秦寺に関する何等の記事もありませぬ、そこで弘法大師がこれを御覧にならなかつたのではないが、どうだらうかといふやうな想像が起るのであります。此の景教の碑文が出来てから二十三年目に弘法大師は長安にお出でになつたのだから或は之を御覧になつたのぢやないかといふ疑もあります。
現に弘法大師が長安を辞して日本に帰られてから二十余年も経過してから書かれた唐の舒元輿の文章中には大秦寺のことがある位ですから弘法大師の長安滞在中に大秦寺の存在して居たことは疑ふ余地がありませぬ。〈附録26~28ページ〉【以下、次回】
佐伯好郎の『支那の景教に就いて』(初出、1931)を紹介している。本日は、その六回目。
斯〈カク〉の如くに先づこの大秦寺と云ふものの存在が分り、この碑文の撰者たる僧景浄が分り、碑文中の大徳及烈が分るといふやうな訳で、次第に景教碑そのもの真物たることが明確になりました。こんなことを後世の天主教の坊さんなどが拵へ得る訳のものでありませぬから景教碑の真正は最早之を疑ふ余地はありませぬ。唯茲に千二百五十年も経つて居るこの石碑が何故こんなに立派に残つて居るかといふ問題があります。即ち余りに石碑が立派に保存されて居る為に動も〈ヤヤモ〉すれば先刻述べましたやうに偽造ではないかと疑はれたのでもあります。併し、是は唯今申しました通りに。西暦一千六百二十三年に(天啓三年)至り、即ち我が元和の末寛永の初めに此の長安附近の地中から掘り出されたのであります。従つて永い間地中埋没して居つたのであります。それが為に大泰寺に遊ぶ人の目にもつかす、又た悪戯者〈イタズラモノ〉等にも傷けられるといふやうなことが無くて済んで来たのであります。そこで次に問題となることは果して然らば何時頃、誰が、如何なる理由で之を埋めたものであらうかといふ問題であります。詰り建中二年(西暦七百八十一年)に是の石碑が建つたものと致しますと、明の天啓三年即ち西暦一千六百二十三年頃まで初めからずつと地中に埋没して居つた訳でもありません。必らず多少の年月は人の目にも留つたことゝ思ひます。併し唐の文人雅客も何も云つて居りません。又た蘇東坡もその弟の子由もこの石碑に付ても何も言つて居らぬ様です。又た楊雲翼の文集にもこの碑文のことに関しては何も書いて居りませぬから、この三人がこの大秦寺の境内に遊んだ時には先づこの石碑は地上にはなかつたものだと推定を致しましてもよいと存じます。併し建中二年から何年経つてからこの石碑が埋没したかといふ問題は仲々六ケ敷い大きな問題なのであります。勿論、之に付ては色々の想像が行はれて居ります。それからもう一つの問題は、弘法大師が支那に行つたのは我が延暦〈エンリャク〉二十四年で支那の貞元二十年ですから西暦八百四年であります。即ち此の碑が建つてから丁度二十三年目であります。その二十三年後に弘法大師は長安に行かれたのであるが、弘法大師の文集五十冊を見ても、般若法師のことは沢山ありますが景浄のことやこの景教の寺のことは何もありませぬ。蘇東坡の文章の中には大秦寺に詣つた記事がありますが、弘法大師の文章には大秦寺に関する何等の記事もありませぬ、そこで弘法大師がこれを御覧にならなかつたのではないが、どうだらうかといふやうな想像が起るのであります。此の景教の碑文が出来てから二十三年目に弘法大師は長安にお出でになつたのだから或は之を御覧になつたのぢやないかといふ疑もあります。
現に弘法大師が長安を辞して日本に帰られてから二十余年も経過してから書かれた唐の舒元輿の文章中には大秦寺のことがある位ですから弘法大師の長安滞在中に大秦寺の存在して居たことは疑ふ余地がありませぬ。〈附録26~28ページ〉【以下、次回】
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