礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

新田均氏による山折哲雄氏批判

2015-02-08 07:50:45 | コラムと名言

◎新田均氏による山折哲雄氏批判

 以前、都立中央図書館で、新田均氏の『先生、もっと勉強しなさい!』(国書刊行会、二〇〇二)という本を手にしたことがある。おもしろそうだったので、その数日後に、新刊書店でこれを購入した。
 この本で、「先生!」と呼びかけられ、批判されているのは、「立花隆先生」、「山折哲雄先生」、「高見勝利先生」の三氏である。流れからいって、このうち、「山折哲雄先生批判」を採り上げる。
 同書には、「山折哲雄先生、不勉強ですゾ!(1)」と、「山折哲雄先生、不勉強ですゾ!(2)」が収録されている。前者の初出は、「『中央公論』七月号論文・山折哲雄氏に異議あり」(『諸君!』二〇〇〇年九月号)で、後者の初出は、「『中央公論』十月号『山折哲雄論文』にモノ申す」(『諸君!』二〇〇〇年一一月号)である。つまり、このふたつの論文は、山折哲雄氏と新田均氏との間におこなわれた論争のうち、新田均氏による主張を紹介したものである。
 この論争を正確に紹介するためには、『中央公論』の二〇〇〇年七月号と一〇月号に載った山折論文のほうも、読んでおかなければならない。また、新田均氏の論文も、初出の形で確認しておいたほうがよい。ところが、よんどころない事情で、図書館に赴いて、ゆっくり調べている時間がない。今回は、『先生、もっと勉強しなさい!』のみに依拠しながら、この論争を紹介してみよう。
 論争のキッカケは、森喜朗首相の「神の国」発言(二〇〇〇年五月一五日)であった。この発言を山折哲雄氏が論文で批判し、その論文を新田均氏が批判し、これに山折氏が反論し、さらに新田氏が再反論するという形で、論争は進んだ。
 以下は、「山折哲雄先生、不勉強ですゾ!(1)」の冒頭部分である。

 高名な宗教学者の山折哲雄氏が『中央公論』(平成十二年七月号)で「森喜朗首相に与う 『鎮守の森』は泣いている」と題して、森首相の「神の国」発言に対する批判を書いている。議論は多岐にわたっているが、要するに、「天皇を中心とする神の国」を「鎮守の森」に重ね合わせ、いっしょくたにして論じたことが怪しからぬ、というのである。山折氏によると、前者が「『国家』の影を深々と宿す人工的な疑似神道」であるのに対して、後者は「日本神道の源流」なのであって、両者は到底同一視できないものであり、日本の神道は「鎮守の森の奥深く回帰することによって、真に普遍的な人類の意識を手にすることができる」のだそうだ。しかも、その「鎮守の森」とは「縄文の世界」であるという。このような主張を山折氏は展開しているのだが、私には非学問的な空想としか思えなかった。
 しかし、山折氏の肩書を見ると、これまで「神の国」発言について意見を述べた人々の中で、彼こそこの問題についての一番の専門家のように見える。だから、読者の中には、〝山折論文は、最新の研究成果を踏まえた、高度で正確な専門知識に基づく論文なのだろう″と勘違いしてしまう方がいないとも限らない。それでは困るので、山折論文の問題点を〝三つの無視″という観点から批判してみたい。すなわち、「近代神道史の無視」「歴史そのものの無視」「神話の基本線の無視」である。

 このように前起きした上で、新田均氏は、山折哲雄論文の批判にはいってゆく。
 この前置き部分で、新田氏は、山折論文が、「非学問的な空想としか思えなかった」と述べている。これは鋭い指摘かもしれない。昨日、このコラムでも示唆したが、山折哲雄氏の研究は、「広い視野に立ち、独自の発想に基づいて、日本人の思想や宗教について論ずる」ものであって、読者としては、必ずしも学者を想定していない。これを、新田均氏のような学者が読めば、「非学問的な空想」と見えるのは当然なのである。
 なお、紹介が遅れたが、新田均氏は、神道学者で、近代日本の政教関係(政治と宗教の関係)がご専門のようである。『近代政教関係の基礎的研究』(大明堂、一九九七)という業績がある。【この話、続く】

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