礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

待てどくらせど近衛公は現われない(富田健治)

2024-08-24 00:17:52 | コラムと名言
◎待てどくらせど近衛公は現われない(富田健治)

 富田健治『敗戦日本の内側――近衛公の思い出』(古今書院、一九六二)の紹介を続ける。本日以降、同書の第四九号〝近衛公自決の真相「その一」〟を紹介したい。

(四九) 近衛公自決の真相「その一」
    (昭和三十四年十一月十日記)

 昭和二十年十二月六日、信州軽井沢で戦争犯罪容凝者としての逮捕命令を受けた近衛公は、依然として、此地に停まること五日、其の間は文字通り沈思黙考の時を過されたことであった。そして十一日夜、月光を浴びて、こゝ信濃高原を自動車を走らせながら、東京に向い、降りて行ったのである。肌にしむ信州の夜気〈ヤキ〉と、冷たい月の光は、一としおに近衛公の胸を強く締めつけたことであろう。同夜は遅く世田ヶ谷の長尾欽哉氏邸に着いた。そして十五日の朝迄この邸に逗留していたのであるが、従来の例と異り、一切の訪客を避け、親しい人達にも余り逢おうとせず、会った者は万已む〈バン・ヤム〉を得ない者に限られていたようである。併し十六日の出頭を控えて、十四日昼頃から、近親の人達にはボツボツ逢い出すという始末であった。前に述べた通り、私は十一日の軽并沢からの電話に依り、十二日の朝十時頃、長尾邸に公爵を訪ねたのであるが、半時間、一時間と待てどくらせど近衛公は現われない。他に訪問客もなさそうで、結局前晩遅く軽并沢から自動車で着かれたので、その疲労と、あとで近衛公から聞いたことであるが、十一日夜は仲々に睡られず、暁方まで何かと考えておられた様子であった。
 漸く正午過ぎになって、応接室に出て来た近衛公は、充分に熟睡をとった血色の良い顔色で悠然ふだんと少しの変りもない態度であった。
 『大へんお待たせしてすみません、ゆうべは疲労やら何かで、明けがたまで眠れなかったものですから』ということであった。
 『今日お出でを願ったのは他でもありません。伊藤述史〈ノブフミ〉君と連絡をして貰いたいのです。それは私の逮捕命令にも関係することですが、戦勝国だからといって、無条件降服だからと言って、終戦後において戦敗国の人間を勝手に裁判にかける、そのために逮捕する。一体そんなことが、国際法の上から許されることでしょうか。自分は色々ずっとこの間から考えて見たんだが、そんな権限は国際法上認められていないと思います。そこで、伊藤君に至急連絡して、この問題を国際法の上から研究して貰って下さい、このことをあなたにお願いしたかったのです』。
 と言うのである。併しこんなことは実は私にとって、今迄思いも及ばなかったことで、内心ビックリした。完全に敗戦した日本、そしてアメリカ軍が我国土を占領して、思うがままに、マッカーサー元帥が占領行政に当っている現在の日本である。総てが占領軍の思い通りに施政せられ、虚脱状態の日本人にとっては、そこに只卑屈だけが残っている状態だったのである。その際に『国際法上からは、出頭の義務なし、占領軍に出頭を命令する権限なしとせば、巣鴨出頭を拒否すべきではないか』というのが、近衛公の意見なのであった。〈281~282ページ〉【以下、次回】

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