礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

芳賀利輔、一木喜徳郎を斬る(1924)

2017-10-12 03:17:12 | コラムと名言

◎芳賀利輔、一木喜徳郎を斬る(1924)

 書棚を整理していたら、芳賀利輔〈ハガ・トシスケ〉著『暴力団』(飯高書房、一九五六)という本が出てきた。この本は、以前、『アウトローの近代史』(平凡社新書、二〇〇八)という本を書いたとき、ずいぶん活用させていただいた。
 しばらくぶりに手にとってみたが、やはり面白い。本日は、同書の「やくざの世界」(インタビュウ)から、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉襲撃事件について語っているところを紹介する。

 それからまた話が逆もどりしますが、私は神田の松本亭へ行つて、その時分にはやくざ者になるという考えは毛頭なかつた。ばかに政治が好きだつたんですねえ、家が貧乏でしたから思うようにいかなかつたのと、うちのおやじが学校へ行くのを好まない。ということは僕の兄弟は頭がいいからみんな学校へやる。私は非常に頭が悪いから学校へやつてくれないんです。おやじは学校へやつてもむだだからやるな。それよりも早く筆屋の職人にしておれの跡を継がせようという。ところが私の母親は何とかして学校へ行かせなきやならないというので、父に内証で順天中学へ入れてくれた。深沢豊太郎なんかも一同で神田の順天中学をでたんですよ。元来政治が好きな私は何時しか近所の松本亭に出這入り〈デハイリ〉するようになつた。たまたま大正十三年〔一九一四〕の頃だと思う、一木喜徳郎という宮内大臣をした人がありましたがこの人はその当時枢密院顧問官かなんかでした。その人と政治的な争いから、その人が宮中改革をやると言い出した。宮中改革というのは宮内省の中を改革するということです。その当時私たちは保守的な考えを以つて居たのだから、宮中を改革するというのはけしからぬ。宮中というのはわれわれ国民と別なもののように考えて居た。それを彼ら個人の考えで改革されてはいかぬというので、大正十三年の二月の十五日の晩に一木喜徳郎の家へ乗り込みまして――それが本郷の曙町〈アケボノチョウ〉でありましたが、斬奸状〈ザンカンジョウ〉を持つて訪問したわけです。そのときはまだ二十六でしたか…………。
 もつとも当時は普通選挙運動が盛んであつた頃で、私は政友会の当時の総裁原敬〈ハラ・タカシ〉先生の説、「普通選挙は必ずやらねばならないが、国民の政治思想が未だ若い、もつと一般人の政治知識を高上せしめてから、地方自治体は勿論、婦人にも参政権を与えるべきだ」という意見に心伏して居つたものだから、単なる普通選挙速進論者で、枢密顧問官で、普通選挙精査委員長である一木喜徳郎閣下と意見があわないので、直接談判をして、場合によつては命を頂戴しようと、血気に早つて本郷曙町の一木邸へ斬奸状を持つて襲撃したわけです。
ききて そのときはもう独立していらつしやつたんですか。
芳 賀 ええ、そうです。それでその当時は子分というんじやなくて書生が四人ばかりおりましたからそれをつれて訪問した。そのとき浜口雄幸〈ハマグチ・オサチ〉さんが総理大臣だつたと思いましたが、忘れました。とにかく民政党の内閣だつたんです。政友会の内閣ではなかつた。
ききて 先生は政友会の方だったんですか。
芳 賀 そうです。そして面会をして――ちようどその当時は冬でした。その頃は政治シーズンといいまして、今はいつでも会議を開くけれども、当時は十二月二十日ごろ開いたものです。十二月の二十日に開会式をやつて、翌年正月の二十日頃まで自然休会になるわけです。それで一月の二十日かな(どうも忘れてしまいましたが)それから議会が始まるわけですが、それが三月一ぱいかかるわけですね。その期間を政治シーズンというんです。その政治シーズンにはみな制服の巡査が二人ずつ交代で大官の家の立番をして居るわけなんです。というのは封建時代ですから暴漢などがくるといけないというので護衛に常に立番をしているわけなんです。それで僕が面会を求めた。僕も暴漢なんですね(笑う)すると今日は忙しくてお目にかかるわけにはいわない、という返事です。それから、ああそうですか、それではこのお手紙を差し上げて下さい。これが斬奸状。どうかこれに対して返事を下さい。もし返事をくれなけばあなたは非国民と考えて殺してしまうんだということが書いてあるわけなんです。それを女中に渡したんですよ。そうするとそれを女中が持つて入つた。どうせ面会をしないんだからそのあとをつけて行つた。それを女中は知らずに暗い廊下を歩いていく。大官の家ですから廊下が相当長いのですがその長い廊下を忍び足で四人でつけて行つたわけです。ところが、一緒に行つたその中に高見沢という書生がおりまして、その書生が初めて人の家に斬り込みをかけるんだからあわてたんですナ。持つていた相州広光〈ソウシュウヒロミツ〉の刀を抜いてしまつた。抜くと薄暗いものですから反射するんですナ。とぎすましてありますから、ありますから、それが天井にピカピカと反射したものですから女中がヒョツとふり返つた。ところが刀を抜いているものだからびつくりして「キヤツ」と悲鳴をあげたものだから、玄関のすぐ隣に護衛の刑事が四人おつたのと。表に二人の巡査がいる、その六人が入つてきた。そこで格闘ですよ。それで僕が「危い!」とどなるとみんな逃げるんです。ところをみんな斬り込もうとする。私の手につかまつたり、腰につかまつたりする「危い!」と言つているうちに私の後にいた高見沢というのが刑事の腕を斬つちやつたんです。それで刑事が倒れてしまつた。それから一木さんの部屋に行つたところが新聞なんか散らばつておりましたが、「国賊」というので一木さんを斬りつけたわけなんです。そうすると、その部屋の一方に、高い出窓がありまして、それを越して表へ逃げようとしたら、それを袈裟がけにまた斬つた。ほかの刑事が足につかまるのでまた「危いツ」と言つたらみんな逃げちやつた。ホラ探せというので邸内をくまなく探したがどこにもおらない。便所、物置まで探したがいない。あとで調べたところが、一木さんは縁の下に入つたんだそうですけれども、それは気がつかなかつた。それからそこで、とにかくやりそこなったのだから、残念ながら此処で腹を斬つて死のうというわけなんです。高見沢千代吉、殿井元助、信田四郎、私の四人です。
「まあ待て」三月二十日に内田良平という先生の引卒する黒竜会〈コクリュウカイ〉という団体があつて、その団体が主催で芝山内〈シバサンナイ〉、いまの芝公園で、われわれと同じ意見のもとに国民大会が開かれるから同じ死ぬならばそれまで命を延ばして有功に死のうと意見が一致した。
 私が金を百円持つて居たので、二十五円づつ分配して逃げることにした。
 私共の剣幕に恐れをなしたのか、警察官は一人も居なかつたから、その場は全部無事に逃走してしまつた。【以下、次回】

「大正十三年の二月の十五日」という日付に間違いがなければ、その時の首相は、清浦奎吾である。清浦の会派は、貴族院の「研究会」。

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