礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

函館市内の尋常夜学校(1934)

2016-05-04 05:21:17 | コラムと名言

◎函館市内の尋常夜学校(1934)

 昨日のコラムで、東京市立の国民夜学校全八一校の校名・住所・最寄り電停を紹介した。
 ところで、この「国民夜学校」であるが、非常に情報が少ない。インターネットで検索しても、ほとんどヒットしない。
 国民学校令の施行(一九四一年四月一日)にともなって、それまでの「尋常夜学校」〈ジンジョウヤガッコウ〉が改称されたのであろうという推測がつくが、これを明確に示している資料を確認しているわけではない。
 ただし、尋常夜学校については、インターネット上から、若干の情報が得られる。
 本日は、『函館市史デジタル版』通説編第3巻第5編第2章第6節2「昭和初期の教育」から、「尋常夜学校」という見出しの部分(六七二~六七四ページ)を紹介してみよう。

 このように、家庭の経済事情によって就学の機会を得られないでいる児童たちに、学校教育の機会を与えようとして設置されたのが尋常夜学校であった。尋常夜学校には、「病気の親のために昼菓子を売ったり働きに出た母親のために家で昼中〈ヒルナカ〉妹や弟の守をして夜になってから学校へ行く」子どもや、「中年の三十四にもなる女の生徒や二十五の男の生徒」もいて、「真剣の勉強ぶりは他校にその例をみない程である」といわれた(昭和7年〔一九三二〕5月11日付「函毎」〔函館毎日新聞〕)。大正6年〔一九一七〕に創設されて以来、昼間働いている学齢児童や学校教育の機会を逸した学齢超過者に、学校教育の機会を提供するものとして活用されていた様子がうかがえる。
 昭和期における尋常夜学校の児童数は表2-158の通りである。
 尋常夜学校の課程は表2-159のとおりであるが、昭和8年〔一九三三〕の大森夜学校〈ヤガッコウ〉の教育の様子を、同校の校長は「わが大森夜学校ではさきにも云ひました通り正しき労働者を作るといふ事に力を入れているのです。で、男子には作業を中心とする事、即ち木工、竹細工、藤細工、紙函製造と云った工合の、手仕事を教へ女子には裁縫を教授してますが、つまり教へ方の中心は「作業」にあるのです」と説明している。因みに同校の校歌は、「西には遠く臥牛〈ガギュウ〉を/学びのひまに仰ぎつゝ/ほまれは高し勤労の/大森夜学、我母校」というものである(昭和8年4月26日付「函毎」)。「勤労の大森夜学校」が同校の教育方針であったことが明らかである。昭和9年〔一九三四〕の市の『事務報告書』は、「本校就学者ハ一般ニ恵マレザル家庭ニ生育シ昼間工場其ノ他ニ於テ業務ニ従事シテ家計ヲ助クル者多キモ一般学習ニ熱心ニシテ其ノ効果亦見ルベキアリ」と記している。就学者の熱心な学習ぶりは、広く社会一般に認められていたようである。
 表2-158【略】
 表2-159【略】
 当時貧困児童の教育に当たっていた一教師は、昭和12年〔一九三七〕10月現在における児童の家庭の職業について、総数349名中、日稼労働者218名、小売商人31名、大工11名、空物売9名、職人類8名などの他に、物品修繕、粕干〈カスボシ〉、鰯〈イワシ〉の釜たき、馬車追〈バシャオイ〉、井戸掘〈イドホリ〉、工場雑役などを挙げていた。また同11年〔一九三六〕10月現在の補習科児童の労働状況については、総数95名中、職工女工33名、職人徒弟11名、新聞配達7名、女中6名の他、内職、給仕、子守、便利屋、除雪人夫などを挙げている。続いてこれら児童の学習状況について「是等の児童は、夜、労務先からかへる父兄に、自分の子守しつゝあつた幼児をわたし、そのまゝ登校するのであります。したがつて彼等は、その家庭に於て読書勉強等の時間を全然持たないのであります。これが亦、彼等の学校に於ける学習に対しても、出席不定、長期欠席、早引、遅刻等となつて、直接、間接に多大の影響を与へるのであります」と述べている。恵まれない条件のもとで、学習を継続するのは容易ではなかったのである(『函館教育』第220号、昭和13年〔一九三八〕2月)。

 ここに出てくる「大森夜学校」とは、大森尋常夜学校の通称であろう。当時、函館市高盛町一一二番地にあった、大森尋常高等小学校に併置されていたものと思われる。
 当時、函館市内に、いくつの尋常夜学校が置かれていたかは不明だが、大森尋常夜学校一校のみでなかったことは、間違いない。というのは、『函館市史デジタル版』通説編第3巻第5編第2章第6節2「昭和初期の教育」の、「続く二部教授」という見出しの部分(六七五~六七六ページ)に、次のようにあるからである。

 昭和9年3月の大火により西部および中心部に位置していた汐見・住吉・宝・第二東川〈ヒガシカワ〉・東川・高砂〈タカサゴ〉・新川・女子高等および大森の各小学校と、高砂・大森の尋常夜学校が焼失し、統廃合の結果、焼失区域に新たに大森小学校と東川小学校が誕生することになるのである。

 これによって、大森尋常夜学校のほかに、「高砂尋常夜学校」があったことがわかる。高砂尋常夜学校は、たぶん、高砂尋常小学校(函館市東雲町〈シノノメチョウ〉一二七)に併置されていたものと思われる。

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