礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その2

2018-07-19 04:22:56 | コラムと名言

◎「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」の紹介・その2

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」を紹介している。本日は、その二回目。

(2) 原告Fの思想・良心

① 最高裁判決法廷意見より
 最高裁判決法廷意見は原告の思想・良心をおおむね正確に以下の3つの内容を持つものと把握している((a)(b)(c)の記号は引用者による)。このまとめは、判決後、諸研究者の論考が依拠しているものである。
(a)「「君が代」が過去の日本のアジア侵略と結び付いており,これを公然と歌ったり,伴奏することはできない」
(b)「また,子どもに「君が代」がアジア侵略で果たしてきた役割等の正確な歴史的事実を教えず,子どもの思想及び良心の自由を実質的に保障する措置を執らないまま「君が代」を歌わせるという人権侵害に加担することはできない」
 以上(a)(b)をうけて
「このような考えは,「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等ということができる。」〔14〕
(c)「雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けているという音楽的に不適切な「君が代」を平均律のピアノという不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできない」〔15〕
 この3つを、訴訟上どう位置づけるかは議論がある。渡辺康行は、(a)「は、教師である「個人」の「思想・良心の自由」である」ので憲法19条論の対象となるが、(b)(c)は「むしろ「教師」の職務権限や職責からの基礎づけになじむものであろう。」と区別している〔17〕。 以下に引用する佐々木弘通も同様である(以下の引用中(1)(4)は最高裁判決多数意見の項目番号、(a)(b)(c)は佐々木による記号で上記引用者によるものと同じ)。
「 憲法第一九条論の観点から法廷意見を読んでいく作業に入ろう。
 第一に、上告人は職務命令に従うことができない理由として、(a)・(b)・(c)の三つの内容の思想良心を挙げる。そして法廷意見は「(1)」で(a)と(b)を一まとめにしたうえで憲法第一九条論の対象とし、「(4)」で立ち入った説明なく(c)も憲法第一九条論の枠組みで処理している。だが憲法論としては、(a)(b)(c)をすべて憲法第一九条論として扱うことができるかに疑問があるし、少なくとも同じ解釈論の型で処理するのは正しくない。(a)は、個人としての内心を語っている。それに対して、(b)は、教育公務員としての内心を語っており、ピアノ伴奏の拒否行為は「違法な職務命令に対する服従義務の不在」論という法的構成になじむ。また、(c)は、音楽専門職としての内心を語っており、「本件職務命令は専門職に固有の自律的判断権限の侵害である」という法的構成になじむ。(b)や(c)を憲法第一九条論として扱うことには、説明を要する。」〔18〕
 渡辺も佐々木も焦点化していないが、注意すべきは、最高裁多数意見においては上記(b)を「「君が代」が過去の我が国において果たした役割に係わる上告人自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上の信念等」として、(a)と同じ思想・良心構造に位置づけている点である。(a)と(b)の異同は、藤田宙靖反対意見が鋭く焦点化しているものである。【以下、次回】

注〔14〕以上は、最高裁判決「理由」の3(1)
注〔15〕同上3(4)
注〔17〕 「公教育における「君が代」と教師の「思想・良心の自由」-ピアノ伴奏拒否事件と予防訴訟を素材として-(『ジュリスト』1337(2007.1))p33 渡辺によれば「本稿が扱っているような事例において、教師が依拠すべきなのは、教師である「個人」の人権なのか、「教師」の職務権限や職責なのかについては、学説上多くの議論がなされてきた。」
注〔18〕「「君が代」ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決と憲法第一九条論」(『自由と正義』2007年12月号)p83

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