礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神泉苑の池には神龍が棲んでいる

2024-05-01 01:05:09 | コラムと名言

◎神泉苑の池には神龍が棲んでいる

 末永雅雄『池の文化』(創元社、1947)の第二章「池の景観」から、第二節「池の名と伝説」を紹介している。本日は、その四回目。{  }は、割り注を示す。

 鏡池の片葉の蘆 【略】

 【なみだ】の池 【略】

 猿沢池 【略】

 神泉苑の池 京都の二条城の近くにあり、法成龍池とも云ひ、池中に島があつて善女籠王〈ゼンニョリュウオウ〉を祭る。三代実録の記すところを要約すると、貞観十七年〔875〕六月は大旱でいろいろと神仏に雨を祈つたがなほその効果がなかつた。その時ある老人が神泉苑の池の中には神龍〈シンリュウ〉が棲んでゐて時に応じて雷雨を起すことを語つたので、藤原遠経〈フジワラノトオツネ〉に命じて神泉苑に遣はして池水を出さしめた、と記してゐる。また弘法大師もこゝに雨を祈りその神徳によつて慈雨を得、人々の苦しみを救つたことを古事談に次の様に記してゐる。
 天長元年〔824〕大旱魃が起つた。即ち空海勅を奉じて神泉苑に請雨〈ショウウ〉の勤行〈ゴンギョウ〉をなしたとき池中に龍があつて自ら号して善如と云つた。此龍は印度の無熱池の龍王の類を勧請〈カンジョウ〉したものであつた。龍は人の形を表はし慈愛心に富み害心を持たなかつた上に真言の奥旨〈オウシ〉を貴び〈タットビ〉池中にその姿を現はした。その形を表はすや金色の如く長さ八寸ばかり、また紫金色の龍もゐてこれは長さ九尺ばかり、この時弘法大師を初め弟子のうちの有徳の僧達若干には見えたが、他の人には見えなかつた。これを宮廷に報告をしたので直ぐ勅使和気真綱が来ていろいろの供物〈クモツ〉を龍王に供したのであつたが、願の日になつて豪雨沛然〈ハイゼン〉として降りその後三ケ月に亘り雨が都合よく降つて旱天の心配が流れ去つた。
 かやうなわけで神泉苑の池は旱天に際して請雨の行事が行はれるとゝもに御苑〈ギョエン〉の池のことであるから、茲に行幸される例も多く鑑賞の池としても有名である。のち後白河院がこの池に鵜〈ウ〉を使はせられたとき一羽の鵜が金装の立派な太刀を喰へて上つて来た。これを鵜の丸と名づけて珍重せられた。そののち崇徳院〈ストクイン〉に伝へられたが源為義〈ミナモトノタメヨシ〉に与へられたので代々家の重宝とした、源氏の鵜丸〈ウマル〉の太刀と云ふのがそれである。{延喜式四十一弾正台(国史大系本一〇六頁)に、神泉苑の周りの地十町毎に七株づゝの柳を栽ゑることを記してある。}

 最初のほうに、「法成龍池とも云ひ」とあるのは原文のまま。神泉苑の池は、一般には、法成就池(ほうせいじゅいけ)と呼ばれている。

*このブログの人気記事 2024・5・1(8位になぜか吉本隆明、10位になぜかN360)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする