◎一切の異端を許容しない統制政策が憲法学説にも及んできた
鈴木安蔵の論文「美濃部博士の憲法学説問題」を紹介している。本日は、その七回目(最後)で、「四」の節を紹介する。
四
美濃部博士は、歴史的文献となった博士の「憲法講話」の序において、「専門の学者にして憲法の事を論ずる者の間にすらも、尚言を國體に藉りてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑へて其の絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下に其の実は専制政治を行はんとするの主張を聞くこと稀ならず」と嘆じてゐる。周知のごとく、博士の著書論文の至るところにおいて、博士は我が日本國體の万国無比なることを讃仰してゐる。自己の学説が、かゝる國體を破壊するどころか、かへつて真に國體を擁護し陛下の神聖を永久ならしむるゆゑんであることを縷述〈ルジュツ〉してゐる。しかるにかゝはらず、その立憲主義的見地のゆゑに、科学的実証的研究方法のゆゑに、今日では、一部の人々によつて、マルクス主義と相隔つ寸毫〈スンゴウ〉の差のみとして、國體破壊の凶悪思想なりと烙印づけられようとしてゐる。それは、あらゆる領域に次々と実現されつゝある統制政策が、憲法学説の方面にも及んで来たことの一兆候である。この統制政策は、一切の異端的なものを許容しない。ドイツのナチスはたゞにマルクス主義のみでなく、議会主義的の社会民主党をも強力的に排除した。
今日、岡田内閣は、ブルヂョア政党と官僚的勢力との均衡の上に立つ中間内閣、緩衝帯的内閣、前者の制覇から後者の指導権掌握への過渡内閣たるの特質にふさはしく、この問題についても、なお半ブルヂョア半旧勢力的寛容さ、曖昧さ、不徹底さを示しつゝ、全体としては、異端糾問の方向に引摺られつゝある。明治大正の交における学的論争から大正七年〔1928〕末の立会演説、そして前議会における論難の開始から今議会の院内外における執拗な積極的弾劾、しかし明日はかゝる一切の論争弁難が、全く議会の壇上から姿を消し去るほどの統制がこの種の問題の領域にも持ち来たされるであらう。
――昭和十年四月号「社会評論」――
月刊誌『社会評論』は、ナウカ社発行。1935年(昭和10)4月号は、その第1巻第2号である。
明日は、話題を変える。