◎天皇機関説を倒閣運動の具にした政友会
尾崎士郎『天皇機関説』(文藝春秋新社、1951)から、「凡例」を紹介している。本日は、その四回目。
後日になつて議会政治に対して総反撃の態度に出た軍が、所謂、憲政常道論は天皇機関説に基くもので、議会を無能力たらしむる道は「天皇機関説」の撲滅にあるといふ意見に傾いたことを考へると思ひ半ばに過ぐるものがあるであらう。それはそれとして、政友会が、「天皇機関説」排撃を倒閣運動の具に供しようとした事実は歴然たるものがある。今から回想すれば正に一場の喜劇であるが、おそらく、排撃論者の大多数が「天皇機関説」の何たるかを解せず、唯、「機関」といふ言葉だけで皇室に対する不敬冒瀆の罪を追究したものと解釈していい。徳富蘇峰翁でさへも美濃部博士の法政に関する著作を読んでゐない、と公言しながら、機関といふ文字だけを批難の対照としてゐられるほどであるから他は推して知るべしであらう。当時の批評家の意見として傾聴すべきものは、長谷川如是閑〈ニョゼカン〉、稲原勝治〈イナハラ・カツジ〉両氏の意見で、長谷川氏が、生物学と法とを区別して、「現在の美濃部博士の学説に関する問題のごときも法的形態として国家を観る学問と道徳形態としてこれを観る学問との方法、態度の差から来た争ひではないかといふことを双方が先づ冷静に考慮する必要がある」といつてゐるのに対して、稲原氏が政治評論家としての立場から、時の首相、岡田啓介が、二月十九日上院〔貴族院〕における三室戸〔敬光〕子爵の質問に答へて、自分は天皇機関説の支持者ではないが、学説については自分たちの関与するところではなく学者に任せるべきが至当であるといつた言葉を引用し、これを三月四日の〔貴族院〕予算総会における同じ首相の、私は天皇機関説には反対であります、と明言した言葉と照らし合せその曖昧性を追求した上で、鉾〈ホコ〉を転じて政友会の態度を難じ、この問題の究明に当つては、「政治家的態度を持たず学者的態度をもつて終始してもらひたいと思ふ。何となれば問題は政争の道具として悪用さるべくあまりに基本的な、あまりに玄妙なものであるからである」と極めつけてゐるのは一層積極化した立論であるとも言へる。〈234~235ページ〉【以下、次回】
徳富蘇峰(とくとみ・そほう、1863~1957)は、ジャーナリスト、思想家。『吉田松陰』(民友社、1893)など、著作多数。