礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『虎の尾を踏む男達』は、一度、製作中止になった

2024-05-22 00:59:22 | コラムと名言

◎『虎の尾を踏む男達』は、一度、製作中止になった

 脚本家の植草圭之助は、その著書『わが青春の黒沢明』(文春文庫、1985)の中で、戦争末期における黒澤明について、いろいろと語っている。
 同書の53ページ以下を引用してみよう。

 私が初めて書いたシナリオ『母の地図』は東宝の島津保次郎〈ヤスジロウ〉の演出で映画化され、興行成績は最高だったが、朝日新聞の映画欄で当時、自ら情報局の旗振りをも って任じ映面批評の権威、帝王的存在を誇っていた津村秀夫(ペンネーム=Q)から批判をうけた。
 作品のクライマックスである、母親役の杉村春子と末娘の原節子が、出征する次男役の大日方伝〈オビナタ・デン〉を見送るシーンがあまりにリアリズムで暗すぎること、原節子と恋人役の森雅之との恋愛が生ま生ましく悲劇的であり過ぎるという二点を挙げ、この種の映画をつくる監督も作者も非国民である、今後、心を改め国策の線に即した作品づくりに挺身すべきであるときめつけられていたのだ。
 東宝へ移籍する前も松竹蒲田撮影所時代から庶民映面の代表的演出家で、〝巨匠〟とか〝オヤジさん〟の異名で通ってきた島津監督はその後、私の顔を見ると、
「くさることはないよ。津村の野郎出会ったら首の根っこ叩き折ってやる。『母の地図』は芸術だよ。戦前ならベスト・テンものさ。それだけは自信持とう。帝王とか権威者だとか笑わせる。おれはね、ゼッタイに戦意昂揚や国策映画は作らねえぞ、たとえ、口が干上がってもな」
 豪放に笑い、私の肩を叩いた。
 私は慰められ、そのたびに自分の生き方に微か〈カスカ〉ながら自信を持つことができたのだ。あの日、黒沢から出されたシナリオの話を心に温かく感じながらも、すぐに彼の友情に応える返辞ができず、とにかく、生活が落着いたら読ましてほしい、ということで別れたのだったが――。
 演出部の部屋に入ると、スケジュール表の『黒沢組』の欄は空白になっていて連絡もつきそうになかった。
 傍〈ソバ〉で雑談していた二、三人の助監督の一人から、黒沢が最近、結婚したことを知らされた。
 黒沢の第二回監督作品――レンズ工場に動員された女子艇身隊の動労精神の美事さとその生態を描いた『一番美しく』のヒロイン役を演じた矢口陽子で、仲人は森田信義〈シンギ〉夫妻だったとのことであった。
 私が流転していたこの三カ月の間に黒沢は『虎の尾を踏む男達』が一時製作中止になったあと『続・姿三四郎』を撮り上げ、結婚式までしていたことを知って、戦況などに捉われずエネルギッシュに行動する、その超人間的な生き方に唸らされた。
「スイートホームは何処なの」と私は訊いた。
「祖師ヶ谷大蔵〈ソシガヤオオクラ〉の駅からちょっと入ったところ……行くなら地図書きますよ」
 とメモに略図を書いてくれたが、傍の一人が、
「いま東京にいないらしいですよ、ハネムーンかな……撮影もずーっと休みだし」
 と言った。それにつづいて、空襲が激しくなり俳優がスケジュール通りに集まらず、予定がまったくたたないのでどの組でも中止状態なのだという話になった。
 前途への不安から、みんな暗い顔附きになっていた。
 私は礼を言って部屋を出た。
 長身、白皙〈ハクセキ〉の黒沢明と清純女優の名に恥じないうつくしい矢口陽子との一対は、さぞ似合いであろうと思い、祝福すると同時に、言い知れぬ寂寥を感じていた。
 羨望というよりは、おれという人間は仕事の面でも、社会的人間としても、ちょうど小学校時代、運動会の徒競走でいつも出おくれたり、転んだりでビリッケツを走っていたように、人生マラソンでも、つねに、障害にぶつかり最後尾を走っている、という実感がつよく胸にきたのだ。

 長々と引用したが、注目していただきたかったのは、『虎の尾を踏む男達』に言及している部分である。植草圭之助は、この映画の製作が戦争末期に開始され、一度、「中止」になったと述べている。
 黒澤明監督の第一作は『姿三四郎』(1943年3月公開)であり、第二作は『一番美しく』(1944年4月公開)であった。植草によれば、『一番美しく』のあと、『虎の尾を踏む男達』の製作が始まったが、それが「一時製作中止」となり、結果として、黒澤の第三作は、『続・姿三四郎』(1945年5月公開)になったという。
 この植草の証言は信じてよいと思う。『虎の尾を踏む男達』は、戦争末期に製作が始まったが、何らかの理由で「一時製作中止」となり、その状態のまま、敗戦を迎えたということであろう。【この話、さらに続く】

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