礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鈴木安蔵「美濃部博士の憲法学説問題」(1935年4月)

2024-05-05 02:40:36 | コラムと名言

◎鈴木安蔵「美濃部博士の憲法学説問題」(1935年4月)

 先月の6日から11日まで、鈴木安蔵著の『明治憲法と新憲法』(世界書院、1947年4月)という本を紹介した。ここで再び、同書を紹介してみたい。
 前回は、第二章「明治憲法学の史的考察」第二節「天皇機関説論争の経緯」の全文を紹介したが、今回は、同じ章の第三節「美濃部博士の憲法学説問題」の全文を紹介してみたい。この文章の初出は『社会評論』の昭和十年四月号とあったので、国立国会図書館で初出論文を閲覧してみたが(マイクロフィルム)、タイトルを含め、ほとんど同一の文章であった。ここでは、『明治憲法と新憲法』にある形で、同論文を復刻する。
「天皇機関説論争の経緯」は、「一」から「四」までの四節からなる。本日は、そのうちの「一」の節の前半を紹介する。

      第三節 美濃部博士の憲法学説問題
        
 昨年〔1934〕二月の第六十五議会の貴族院において、菊池〔武夫〕男爵が美濃部〔達吉〕博士の天皇機関説、理法観念等を攻撃したことは我々の記憶に新たなところであるが、今議会〔第67回帝国議会〕においては菊池男爵が再び論難の矢を向けたのみならず、衆議院では陸軍少将江藤〔源九郎〕代議士が激越な攻撃を放ち、三室戸〔敬光〕子爵もまた貴族院において美濃部博士の弁明を駁論した。江藤少将は、これのみで満足せず、二月二十八日美濃部博士の「逐條憲法精義」、「憲法撮要」の理論が不敬にわたるものとして、博士を不敬罪をもつて告発するにいたつたし、院の内外において反美濃部税の諸代議士、諸団体は、演説会において、新聞紙において、「学匪」「反逆者」「悪逆学説」排撃打倒の叫びを挙げている状態である。
 これら反対運動の急先鋒は、さきに瀧川〔幸辰〕教授罷免、京大法学部教授辞職問題を惹起せしめ、また最近末弘〔厳太郎〕教授攻撃の運動に成功した日本主義的諸団体であり、貴衆両院内にも、また、軍部ならびに在郷軍人の間にも強力な支持があるようである。すなわち二月二十七日には、全国の在郷軍人を糾合した愛国団体たる明倫会が、反対声明書を発表し、二十八日は貴衆両院の「右翼思想を抱く」有志議員(「読売」三月一日)が相会して等しく弾劾を決議し、つゞいて在郷将校の中堅恢弘会〈カイコウカイ〉その他國體擁護連合会、黒龍会、愛国社、維新懇話会等々の諸団体も同趣旨の運動を起し、三月一日には院内外の連絡を計るために連合会議が催され、院内においても数名の有志議員が、今後次々と同問題を掲げて態度曖昧なる政府に肉薄し、美濃部博士の公職辞退、二主著発禁の目標連成に邁進することになつた。陸海軍内にも頻々として対策の会合が行はれていると伝へられている。
 この議会で問題となつたのは、博士の天皇機関説、詔勅批判の是非、議会観等であるが、特に天皇機関説が中心論題とされてゐることは、左の恢弘会の決議によつても窺はれる。これは、他の諸声明中最も代表的のものである。
 「美濃部博士〔中略〕の憲法学説は何れも神聖なる我が國體を冒瀆し国民精神を悪化せしむるものなり、就中〈ナカンズク〉其の天皇機関説は我が天皇国家不可分の原埋に反し国家を以て統治の権利主体とし天皇を以て国家の機関なりと説くものにして〔中略〕聖旨及び帝国憲法第一条を覆へし而して天皇ありて国家あり天皇即国家なる開闢〈カイビャク〉以来の崇高なる国民信仰及び善美なる国民道徳の根柢を破壊し且歴史を無視し大義名分を滅却するものなり、是國體精神の変革に非ずして何ぞや、國體変革を企図する『マルクス』主義と相距る毫厘〈ゴウリ〉の差あるのみ、我国に於ては断然禁止すべき思想に属す〔下略〕。
 主張するところは極めて信仰的である。美濃部博士の学説に対する批判としては、つとに蓑田胸喜〈ミノダ・ムネキ〉「学術維新原理」佐藤清勝〈キヨカツ〉中将「美濃部博士の日本憲法論批判」等が公けにされてゐるが、これすらすでに純科学的批判といふよりは、甚だしく信条的教義的であり、知信合一の宗教的色彩を帯びてゐる。今度の議会における諸氏の質問も、徹頭徹尾、信仰的であり政治的であること、本来学会の問題たる憲法論々争を最初から信仰的に取扱つたばかりでなく、議会壇上の問題として論難攻撃に力め〈ツトメ〉た上、さらに院外大衆運動として発展せしめようとしてゐることこれがこの事件の第一の特徴である。【以下、次回】

『明治憲法と新憲法』では、「美濃部博士の憲法学説問題」というタイトルのあとに、節番号の「一」がない。初出に従って、「一」を補った。
 第65回帝国議会(通常会)の会期は、1933年12月26日から翌年3月25日まで。第67回帝国議会(通常会)の会期は、1934年12月26日から翌年3月25日まで。この間に、第66回帝国議会(臨時会)が開かれている(会期、1934年11月28日~同年12月10日)。

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