礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

宮沢俊義「八月革命と国民主権主義」を読む

2022-12-05 02:24:20 | コラムと名言

◎宮沢俊義「八月革命と国民主権主義」を読む

『世界文化』第一巻第四号〔新憲法問題特輯〕(一九四六年五月)の紹介を続ける。本日以降は、宮沢俊義の論考「八月革命と国民主権主義」を、何回かに分けて紹介してゆきたい。傍点(圏点)は、太字で代用した。

 八 月 革 命 と 国 民 主 権 主 義   宮沢 俊義

 去る三月六日発表せられた政府の憲法改正草案の特色のうちで、いちばん重大なものは、いふまでもなく、国民主権主義あるひは人民主権主義である。
 日本の政治を民主化し、日本を民主国として再建するために、日本の政治の根本建前として国民主権主義を採用することが必要かどうか、またはそれが望ましいかどうか、については昨年の終戦以来数々の論議がなされた。日本の政治を民主化するためにはどうしても国民主権主義という建前を採るべきだといふ見解も相当に有力であつた。しかし、全体から見ると、日本の政治において民主主義を確立するためには必ずしも国民主権主義といふ建前を採る必要はないといふ意見のはうが強かつたやうである。
 終戦後相次いで成立した諸政党はそれぞれ憲法改正に関する多かれ少なかれ具体的な意見を発表したが、その中で明確に国民主権主義を採るべしとしたのは共産党案だけで、そのほかの諸政党は、進歩党も自由党も社会党も、国民主権主義を明確にみとめることをしなかつた。社会党案は、その実質においては、国民主権主義にきはめて近いものであつたが、それでも「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」といふやうな表現を用ひ、国民主権主義を正面から承認することを、ことさらに避けてゐるかに見えた。
 かやうな状態の下において、さなきだに保守的であり、反動的であると評された幣原内閣が、その憲法改正草案において国民主権主義を真正面に掲げようとは、おそらく誰もが夢にも考へおよばなかつたところであらう。それだけにかねがね政府の保守反動を非難して来た在野の諸政党もこの点では完全に政府に出しぬかれた態である。政府案が公にされると、共産党を除く各政党はいづれも「今日の政府案はわが党の主張するところと概ね同一である(!)から大体においてこれを支持するに吝かでない」などといふ趣旨の声明を発したが、はたして今日の政府案がそれまでに発表された諸政党案と「概ね同一」といへるかどうかは大いに問題であらう。
    *    *    *
 今日の政府の憲法改正草案が国民主権主義を真向から承認していることはきはめて明白であるとおもふ。
 政府案は、おそらく意識的であらう、「国民が主権を有する」という類の表現を全く用ゐていない。しかし、それにもかかはらず、その原則を根本建前として承涊してゐることは疑ひを容れない。
 たとへば、政府案の前文は、「日本国民は‥‥茲に国民至高意思を宣言し、‥‥此の憲法を制定確定し」云々といつてゐる。これは日本国民が日本の政治の最終の権威者としてその意志によりこの憲法を制定するといふ意味であり、明らかに主権在民の原則を表してゐる。その書出しの「日本国民は‥‥」といふ言葉――英訳では‟We, The Japanese people‥”と〔い〕つてゐる――は、アメリカ合衆国憲法の前文の書出しの言葉「我ら合衆国国民は‥‥」(We, The people of the United States)とその趣旨を同じくする。また「国民至高意思」は、英訳にthe sovereignity of the pcople's willとあるとほおり、国民が主権者だとする趣旨を示してゐる。
 リンカンの「人民の、人民による、人民のための政治」といふ民主政治の定義は誰もが知るところである。日本における民主政治もはたして「人民の、人民による、人民のための政治」でなくてはならぬかどうかは昨年の終戦以来しばしば論議せられた。日本の民主政治が「人民による、人民のための政治」でなくてはならぬことはきはめて明瞭で、別に議論はない。問題は、日本の民主政治も、単なる「人民による、人民のための政治」であるだけでなく、その上に「人民の政治」でなくてはならぬかどうかであつた。多くの人は日本の政治の根本建前はこれが「天皇の政治」であることにあり、従つて日本では「人民の政治」といふ原則は適当でないから、日本の民主政治は「人民による、人民のための政治」ではあるが、しかし、どこまでも「天皇の政治」でなくてはならぬ、と考へたやうである。すなはち、日本における在来の君主主義といふ建前をくづさずにそのままにしておいてその上に民主政治を建設しようといふのが多くの人の考へであつたやうである。
 ところが、今日の政府案はリンカンの右の言葉を、そつくりそのまま自らのものとし、日本の政治は、「人民の、人民による、人民のための政治」であるべきだとしてゐる。すなはち右に引かれたその前文には「日本国民は‥‥茲に……国民至高意思を宣言し、国政を以て其の権威は之を国民に承け其の権力は国民の代表者之を行使し其の利益は国民之を享有すべき崇高なる信託なりとする基本的原理に則り此の憲法を制定確立し」云々とあるが、ここで圈点を附せられた言葉がまさしく「人民の、人民による、人民のための政治」の意味であることは、改めてことわるまでもない。
 以上からも明らかであるやうに、政府の憲法改正案は「天皇の政治」といふこれまでの日本の政治の根本建前を棄てて、「人民の政治」という新らしい根本建前を採り、その根柢の上に民主政治を実現しようといふ意図に指導されてゐる。〈六四~六六ページ〉【以下、次回】

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